コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

言葉への想い


ここ最近、ここへの書き込みに関して言葉を大切にしていないのではないかと不安になることがある。言葉をないがしろにしているつもりはないのだが、貧弱な語彙や同じような言い回し、わかりにくい文脈をもって取り留めのない結論に至っているような気がしてならない。良い文章とは素っ頓狂な単語を羅列すればいよいというものではないとは理解している。しかし貧弱な語彙は貧弱な文章をしか産まない。適切で幅広い言葉こそが豊かな文章となる。果たして私の文章はそのような広がりを表現できているだろうか。おそらく答えは否だ。読んでいるだけで興奮を呼び起こすような文章。私が求めてやまないものを私は体現できてはいない。

また、語尾の曖昧さが我ながら気に食わない。「〜だろう」「〜だと思う」「〜のような気がする」のような、断定できない語尾がつらつらと続く。己の思索の自信のなさが文章に表れている。畢竟、冗長でだらだらとした文章になってしまう。

あるいは、無駄に書きすぎていて言葉の扱いがいい加減になってきている、ということも否定はできない。書けば書くほど頭の中が煩雑になっていき、言葉の技巧を考える余裕がなくなっていく。かといって、書かねば何もはじまらない。書くことを一時的にやめよう、と思うこともあるが、書かねばそこに何もなくなってしまう。そしてずるいようだが、今は書くという行為そのものが快感をともなっているのも事実だ。醜い文章を綴りながら私は文章を書くことを貪欲に楽しんでいる。


かねがね、小説のような随想を書きたいと思っている。ただおざなりに言葉を繰るのではなく、選び、巧みにくみ上げられた言葉のパズルをもって思い考えたことを描くことができれば、と。しかしなかなか思うようには描けない。技巧を考えれば流れが止まり、勢いに重きを置けば言葉が軽くなる。若い頃のような奔放で無神経なあふれ出るような言葉の渦はもう私からは溢れてこない。苦渋と妥協でどうにか難産の文章を産み落としている。小説のような文章には程遠い。

その言葉への躊躇を示すように、私は文章に対して何度も何度も書き直しを行う。推敲、というには程遠い。己の生み出したものがあまりに不完全ゆえに、手直しせずには気がすまないのだ。直しては書き、書いたものを読んでは座りが悪くてまた手を加える。時には記事全体が気に食わず、ひとまとめで削除してしまうことさえある。そうやって闇に消えた文章もひとつや二つではない。

こまごました書き直しは、パソコンを使って文章を書くようになってから身についてしまった悪癖だ。これを悪癖と言っていいのかどうかわからないが、文章の勢いを削ぐという意味ではやはり悪癖と呼ぶべきだろう。以前、手で文章を書いているときは、一気に書き上げてから見直し、修正をしていた。良くも悪くも勢いのある文章を書けていた。いまは、そのような書き方ができない。もうそのような書き方は忘れてしまった。手で書いていても、パソコンで文章を書いているときのように少し書いては立ち戻り、気に食わなくてすぐ直す書き方をしてしまう。勢いと流れを持って一気に書き続けられるようなまとまったものはもう書けない。

あるいは、もともとそんなものは書けていなかったのかもしれない。若かりし頃はそれに気付かず手直しさえできていなかっただけなのかも知れぬ。己の文章の読み方が変わり、細かな不和も意識に止まるようになったということもあろう。

しかしともかく、手で書けない、勢いで書けないというのは、やはり何かしらの違和感を呼ぶ。必然、手で文章を書かなくなる。私の右手の人差し指のペンダコもすっかり柔らかくなってしまった。今では噛みダコとほとんど変わらない。手で書くことの快感を私は忘れつつある。


パソコンで文章を書くことが悪いとは言わない。それはそれで便利で気軽で、かつ人に見られる機会を与えてくれる素晴らしいものだ。それを否定するつもりもないし、これがパソコンやインターネットでなければ、そもそも飽き性な私がこうも長く文章を書き続けてはいられなかっただろう。見られているという意識はヘタクソなりに文章を考える意識を与えてくれるし、また励みにもなる。どのくらいの人が来訪してくれているのかわからないが、ここを見てくれている人がいるということは本当にありがたいことだ。時折書き込まれるコメントやトラバで、私の砂上の楼閣のような儚いやる気はかろうじてその形を保っている。また人の日記を読むことは良い触発になる。


などと言いつつ、また取り止めもないことを書いてしまった。