コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。


かなり昔、私は詩というものにあまり興味を持っていなかった。詩は削ぎ落とされた文章であり、あいまいかつ安易に書けるものだなどと思っていた。私は詩よりも文章にこそ価値があると、心のどこかで思っていた。そんな考えであったから、当然、詩を書いたり読んだりすることもほとんどなかった。

時が経ち、詩に面白さと奥深さを感じるようになっていった。削ぎ落とされた言葉には無駄がない。またときには必要な言葉さえ削ぎ落とし、その行間を読むものの頭や心の中で作らせるものであることを、徐々にだが理解していった。詩は誰にでも書けるが、人の心に響く詩は本物にしか書けない。安易に書いた詩では人の心には響かない。
またレトリックの楽しさも覚えていった。言葉を繰ることの楽しさ。そして読ませ、読むことの楽しさ。その象徴が詩であることにようやく気づいた。

私は詩を書いた。それを詩と呼んでよいのかどうかわからない。しかし若者特有の無知と無謀、そして勢いとちっぽけな正義感で、詩のような言葉を紡いだ。私は自分の詩が好きだった。人にどう評価されるかはわからないが、自分が集めてくみ上げた詩というカタチを、私は好んだ。

しかしさらに年を経るにつれ、その積み上げた言葉には芯がないことに気づいた。ただ格好の良い言葉を並べ、積み上げただけの空洞。「読む人が考えて」という虫のいい添え文句で、己の芯のなさを正当化しようとしていた。まるでアール○バンが押し売る、売れっ子イラストレーターの絵のように、ただ見た目が良いだけの瓦礫。否、見た目が良いということさえ手前味噌な誇大評価であったかもしれぬ。ただの朽ち果てたガランドウのスクラップ。それが私の詩。

そして私は詩を書かなくなった。否、何度か再び書こうとしたことはあった。しかし考えることを覚えた私は、その代償として勢いを失ってしまっていた。書く、考える、そしてため息をついてその詩を消す。残ったのは白紙のテキストファイルと、回顧と懐古。

いつかまた書けるときがくるかもしれない。否、書こうと思えばいつでも書けるはずだ。書くだけなら。昔のようには書けない。しかし、今しか書けないことが何か書けるはずだ。

しかし、今はとりあえず書かない。書けない、ではなく、書かない。そう言っておこう。貯めておいたら、そのうち爆発するかもしれないから。