id:exhum氏の「異物の語り手 - 日記のようなもの」を読んで。彼が日記を書くにあたり、なぜ「わたし」という一人称を選んだのかについて書かれている。
私も日記を書くにあたって「私」という使い慣れぬ一人称を選んだ。とはいってもexhum氏のような深い理由があったわけでもない。単にそれが「偽りのない範囲で最も自分から遠い呼び方」であったからに過ぎない。日記を書くにあたり、多少なりとも体裁を整えようと、少し堅い文体を選び、そして「私」という比較的現実感の乏しい一人称を選んだだけなのだ。私の場合、要は「単なるかっこつけ」だったとも言えるかもしれない。
その「体裁を整える」という目論見はとうの昔に崩れている。私の文体は崩れ、内容も俗なものばかりになっている。現実と離れたところを望んでいたにも関わらず、いつの間にか現実と直結した話を語り、己の内心や愚痴を暴露し、時にバカげた勢いでフザけた記事を書いたりもしている。
しかしこの「私」という一人称だけはいまだ崩れず続いている。これが私にとっての最後の拠り所なのかもしれない。あるいは私にとっての最後の枷なのかも・・・。