コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

誤用に御用

巫山戯た見出しで御免なさい。

昨日、「確信犯」の誤用について少し触れたので、それに関して少しググッってみた。その中で面白いページを見つけたので紹介。

言葉に関するエッセイのようなものが書かれているページ。件の「確信犯」の誤用などにも言及しているが、飽くまでも「誤用を指摘し、本来の意味を紹介する」に留まっている。ページのトップにも記述してあるが、

言葉の変化に対して、必要以上に保守的であることは好ましくない。一般的に言っても、変化を否定することは、進化を否定することでもある。

というスタンスのようだ。ただし誤用や言葉の乱れを手放しで受け入れるというのではなく、自然な変化や語彙の広がりには寛容に、ただし意味の単純な消失や後退に関しては善しとしない、とのこと。この辺りの考え方には共感を覚える。

以前に何度か書いているが、言葉とは変化するものだし、絶対的に正しい言葉などない。それは時や状況、場面で変化するものであり、そこで意味が通じ、雰囲気を壊さないのであれば誤用であれ造語であれそれは正しい語となるはずだ。「確信犯」と聞いて「意図的に犯罪を行う者」「意図的に何かを行う者」が一般的に想起されるのであれば、既にそれは言葉が新しい意味を持ったということだ。もちろん、本来の意味を知っているに越したことはない。ただしこのようなケースで「間違いだから使うな」とまで言うのはどうかと思う。それは単なる言葉狩りに過ぎないのではなかろうか。

まとめれば「有用で表現力のある誤用なら別にいいじゃないか」ということになろうか。

ただし「確信犯」のように代替の利かない意味を持った言葉や、誤用によって新たなニュアンスを獲得した言葉、意図的な誤用ならともかく、必要のない誤用は避けるべきだろう。例えば「脚光を集める」など、言葉の繋がりにおいて正しくない表現などは訂正を促してもよいと思う。日常会話ではそこまで細かく突っ込む必要もないとは思うが、いざ正しい言葉を使おうと思ったときに使えない、というのでは少々困ることもあろう。*1


少し話は変わるが、メディアによる言葉の解体については危惧を覚えている。「確信犯」の誤った用法についても、人々が作ったというよりはメディアの誤用が一般化したものと言えるだろう。メディアは一般個人と違い、言葉を使うことに関してもっと大きな責任を持たねばならないはずだ。しかし実際のところ、メディアによる誤用は多いように思う。メディアが誤用を続ければそれが一般化してしまう。ゆえに、ドラマやバラエティならともかく、ニュースやドキュメントで誤用の氾濫を簡単に許すことはできまい。それが既に一般化した誤用ならいたしかたあるまいが、そうではない、メディアが発信源となる誤用は出来る限り避けるべきだろう。


さて件のページの記事の話に戻ろう。まだ全てを読んだわけではないが、いろいろと面白い話が書いてある。言葉をきっかけに随想に繋げるというやり方も私はやっていることに少し似ている*2。内容に同意できるかどうかは置いておくとしても、そういうスタンスは面白いと思う。私などまだまだ言葉の端の欠片を食んでいる程度のものなので、このような言葉についての話を読むのは楽しい。またこういう話を読んでいると、自分の書きたいこともワキワキとわいてくる。私の場合、根本的な知識の欠落と書きたいことがあっても文章がまとまらないのが当面の悩みなのだが。*3

*1:といっても、私もさほど「正しい言葉」を使えているわけではない。このブログの中でも情けないほどたくさんの誤用をしてしまっていることは間違いない。

*2:なんて、おこがましいこと言って御免なさい。

*3:「確信犯」の誤用についても、つい最近まで知らなかったし。