コトバノウタカタ

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宗教とは

靖国神社の話に関連し、「宗教とはなにか」ということについてツラツラと考えていた。「宗教とはなにか」と問われ、一言で答えられる人は少ないのではないだろうか。漠然とこういうものとわかってはいても言葉にしては説明し辛い。あるいは各宗教の名を上げることはできても、それらをすべて包含する定義を述べるのは難しい。

以前に「宗教学」の授業を受けたことがある。この場合の宗教学というのは、内側からではなく外側から、宗教という人間の社会的行為を包括的かつ客観的に分類、分析したようなものを言う。宗教自体観念的で客観的分析は難しいと思うのだが、その授業で聞いた話にはそれなりの説得力があり、いまだに私の中で宗教とは何ぞや、というややこしい話の一つの解答となっている。


まず宗教の定義。宗教とはどういうものを言うのか、について。「神の存在」や「戒律」という言葉が出てくるかもしれない。しかし一部の哲学的な仏教は神仏の存在を否定し、ただ悟りを啓くことのみを求めるものもある。また古神道には地域ごとのルールのようなものはあっても、戒律と言われるほど厳しい戒律はない。それらを含めながらもっと広義に定義していくと、以下の3つの条件が上げられるとのこと。

  1. 儀式を行うこと
  2. 聖と俗の考えがあること
  3. 集団であること

儀式というのは何もオカルティックなものばかりではなく、例えば「座禅」などもひとつの儀式。ある決まった形式に則り何かを行うこと。教義、礼拝、祈祷もこれに入るかと。

聖と俗というのは、一番わかりやすく言えば「神」と「人」、「僧侶」と「一般人」、「教祖」と「信者」。禅で言えば「悟りを啓いた状態」と「啓いていない状態」あるいは「出家」と「在家」。そういう聖と俗を分ける考え方があること。

最後に集団であること。ひとりの人間が「ここに神が居る」と言っても宗教にはならない。それは単なる思想や妄想でしかない。複数人の人間が集まり、ひとつの宗教観を共有することによってそれははじめて宗教たりえる。

この場合「こっくりさん」なども宗教に入ってしまいそうなので完全ではないのかもしれないが、おおよそ尤もな定義だと思う。


もうひとつ、その授業の中で印象的だったのは、宗教の3つの形態の話。ちょっと調べてみたところ、これは宗教学者の岸本英夫氏が提唱したものらしい。

  1. 請願態
  2. 希求態
  3. 諦住態

請願態というのは、最も基本的なもので、日常生活において神や仏に加護や欲望の充足を求めるもの。豊作祈願や、天災回避の祈願、神社に詣でて願い事をするなど。霊を鎮めるなどもこれに入るだろう。人類の中に古来から存在するアニミズム。そして今もなお多くの宗教が持つ現世的な利益を求める考え方。

希求態というのは、俗世の利益ではなく、ある理想を持ってそれを求めること。たとえば神の御心に沿った世界を作る、善なる心を持つなどがそれに当たるようだ。キリスト教などはその典型ということになるようだ。

最後の諦住態は、いわゆる「悟り」を啓くこと。私の言葉では説明できそうにないので引用を。

第三の諦住態とは、新しく日常的な生活経験を超えたところの究極的、永遠なる価値を直観的に体得し、その境地に諦住することによって、現実の状況課題はそのままに受容しながらも、そこにそれを超えたより高次な意義を発見して、新しい生活を啓拓してゆこうとするものである。

この考え方は、浄土真宗の親鸞の教えを元にしているらしい。そういう意味では客観的な宗教分析とは言い難いかもしれないが、類別としては一理あると思う。


私も言葉の上っ面を見ているだけで中身まで理解しているとは言い難い。そもそもちらっと耳にしただけなのでその理解も正しいかどうかもわからない。さらに言えばこれらの定義や類別が正しいという確証もない。それでも、このような考えには納得させられるところがあると思うし、そういう視点で宗教を見ていくというのは面白い。

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