コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

チャイルドシート転換期

しばらく前の話になるが、子を車に乗せるときに使っていたベビーシートが小さくなってきたので、新たにチャイルドシートを買った。


いままで使っていたベビーシートは、コンビの「ドゥキッズ4」。これはベビーシートとベビーカーがセットになったもの。ベビーシートは部分「プリムベビー」という名で単品でも発売されている代物で、車に常時固定するのではなく、使うたびにシートベルトで脱着するようになっている。外せばそのままベビーキャリーとして使用でき、屋内では簡易の揺り籠にもなる。つまり、子をベビーカーから降ろすことなく移動させられるのだ。またそのベビーシートをベビーカーにガチャリと取り付ければ対面式のファーストタイプのベビーカーになる。子が寝ている場合に、起こすことなく屋内に、あるいはベビーカーに移動させることができる優れもの。

この製品を買う前はベビーシートを使うたびに車に取り付けしなければならない、というのは面倒のようにも思っていたが、慣れればなんのことはない。15秒ほどで取り付けできる。子をベビーシートに乗せてから取り付けできるので、乗せる時にも楽ちんだ。

ベビーシート(プリムキッズ)部分は、1歳児10kgくらいまで使用可となっている。ちなみにベビーカー部分は、ベビーシート部分を取り付けなければ、2歳まで使用可能な非対面式のセカンドタイプベビーカーとして使用できる。


うちの子はまだ10kgまではいっていないが、1歳を過ぎたということもあるし、プリムベビーが窮屈そうになってきたので、次の段階へ以降することにした。ということで購入したのが同じくコンビの「プリムキッズ」だ。これは一般的な座り式のチャイルドシートで、9kgから36kgくらいまでと末永く使えるモノだ。「ドゥキッズ4」と同様、いろいろギミックが組み込まれていて、3段階に変形する。当然まだ初期段階。体が小さいので乗せてもちょっとアンバランスだが、いままでのベビーシートでは見えなかった外の景色が見えるようになって嬉しそうだ。乗せた瞬間はぐずることもあるが、乗せてしまうと大人しくなる。ちなみにこれも常時固定式ではなく、シートベルトのみで取り付けるようになっている。上手く作るものだと関心する。


コンビの製品はこのようにギミックなものが多い。他の製品を使ったことがないので使い勝手がいいか悪いか判断できないが、個人的には気に入っている。特に子を乗せたまま脱着、持ち運び可能な「ドゥキッズ4(プリムベビー)」は重宝した。便利だし、それだけではなく、ギミックに凝っているというのがまた面白い。よくあのような仕組みを思いつくものだと思う。

しかもコンビ製品は他社製品に比べて比較的安い。「ドゥキッズ4」などは安売りで4万くらいだが、ベビーシートとベビーカーを別々で買うことを考えれば断然安い、と思う。「プリムキッズ」は2万以下。長い間使えることを考えればコストパフォーマンスは良い。アではじまる某高級ブランドの半値くらいで買うことができる。

安全性についても、アではじまる某高級ブランドよりは評判はよさそうだ。シートベルトだけで脱着と聞くと不安がる人もいるかもしれないが、付け方さえ間違えなければしっかりと固定できる。国土交通省のチャイルドシートアセスメントでも、「プリムキッズ」は良*1、「プリムベビー」は優*2とランク付けされている。

買い物下手な私だが、「ドゥキッズ4」には充分満足できた。「プリムキッズ」はまだ買ったばかりなのでまだ評価しきれないが、悪い買い物ではなかったと感じている。

関連サイト

*1:[http://www.mlit.go.jp/jidosha/carinf/crs/02/c1011.htm:title=チャイルドシートアセスメント試験結果詳細 - プリムキッズ]

*2:[http://www.mlit.go.jp/jidosha/carinf/crs/01/0204.htm:title=チャイルドシートアセスメント試験結果詳細 - プリムベビー]

アクセス懐石

id:zizyさんの日記を読んでいて、考えてみたら、というか考えるまでもなくブログの中にはアクセス解析してるところもあるんだなぁと実感。一日何度もアクセスしてる人もいる・・・とあるのを見て、私のことではないかしら、と不安になってみたり。ということでちょっと言い訳。

私の場合、アンテナ見ながら更新があったら一日何度でもそのサイトを見に行ってしまう。アンテナに乗せててよく更新されるサイト、コメントの多いサイトはどこと限らず結果として何度も見に行ってしまうことになる。でもストーカーじゃないですから。単なるネットホリック、ネットアディクションですから。ご心配なく。

ってストーカーもネット中毒者も同じようなものか・・・。

懐石(かいせき)*


「懐石」といえば、豪華な日本料理のコースなどに使われる言葉となっているが、本来は茶の席で出される簡単な食事のこと。「会席料理(かいせきりょうり)*」の会席と音が同じことから混同され、本来の意味とはまったく逆の豪華な料理の意として使われたりしている。

禅寺で腹が減った僧侶が、暖めた石を懐に入れて空腹を凌いだことから「懐石」という言葉が生まれたらしい。しかし、空腹を暖めた石で凌ぐ、とはこれまたいったいどういうことなのか。そんなことで空腹が凌げるのか。懐が重く暖かくなれば、腹が重くなったように錯覚する、とでもいうのだろうか。試したことはないからわからないが、珍妙な話である。

ちなみに、「会席料理」とうのも本格的な料理の簡易版で、実際の和食のコース料理は「本膳(ほんぜん)*」というらしい。

変な絵好きな絵 - ゴヤ

前回浅はかな嘘知識を披露してしまってご指摘を受けたのに、また性懲りもなく書いてみる。なるべくいい加減なことは書かないつもりだが、いかんせん根がいい加減なので・・・また間違いがあればご指摘お願いします・・・。


フランシスコ・デ・ゴヤ (Francisco de Goya)
Discoveries: Goya (Discoveries (Abrams))
ゴヤへの旅―生誕地フェンデトードスから栄光と悲惨の地マドリッド、終焉の地ボルドーまで (毎日ムック―美術の旅)
ゴヤ NBS-J (ニューベーシック・アート・シリーズ)
ゴヤと聞いてまず思い浮かぶのは「我が子を喰らうサトゥルヌス(Saturn Devouring His Son)」(画像)。この絵のインパクトは強烈だ。一度見たら忘れられない。絵だけでもとんでもないインパクトなのに、題名がそれをさらに後押ししている。変を通り越して、怖い、グロい。しかし目が離せない絵だ。

この絵もそうだが、ゴヤは晩年に黒い絵と呼ばれる連作を描いている。暗いといより、本当に黒い。そういう黒い絵は見ていて重たい気分になる。描いていた方もおそらく重い気持ちだったのだろう。

ゴヤは風変わりなことに、「我が子を喰らうサトゥルヌス」(画像)や「砂に埋れる犬」(画像)などの自ら描いた黒い絵を自宅の壁に飾っていたそうだ。以前、徳島県の大塚国際美術館に行ったときに、「ゴヤの家」なる展示室が作られていた。そこにはゴヤの家を元に作られ、黒い絵のレプリカをゴヤの部屋と同様の位置に展示していた。正直なところ、普通の人間が普通の精神で生活するような部屋ではないと感じた。絵として見るにはインパクトがあって面白いモノだと思うが、日常的に常に目に入る場所に飾っておきたい絵ではないかな。

もうひとつ面白いのは「着衣のマハ」(左端・画像)と「裸のマハ」(中央・画像)の対の2点。対比の妙というよりは、悪戯心を感じる。

最後の大和撫子

緒川たまきのまたたび紀行―ブルガリア篇
大和撫子という言葉は既に褒め言葉ではないのかもしれない。それでも、この言葉はまだ価値を持っていると思う。おとなしくて前に出ない、という意味ではなく、落ち着きかつ雅やかな女性という意味において。

テレビを見ていても姦しい女優やアイドルが多い中で、この人だけは大和撫子と呼ぶにふさわしい、と思う人物がいる。今の私と同じくらいの年代の女優の中でただ一人、「〜かしら」という言葉遣いをして嫌味のない人。それは緒川たまき、である。穏やかな所作、物静かな口調、理知的な雰囲気、カメラ撮影が好きで猫好き。物を見る目と、感じる心、そして語る言葉を持っているように見受けられる。顔も少々うりざね型でそういう意味でも大和撫子と言えるか。

芸能人の趣味があまり一致しない相方とも、緒川たまきに関しては意見がほぼ合致している。「たまき」というのを子の名前候補にしていたほどだ。

しかし最近、テレビ等ではあまり見かけなくなってしまったのが残念だ。以前は「ソリトン」「日曜美術館」「デジスタ」など、NHKの番組でよく見かけたのだが、最近はレギュラーもなくなってしまったのではないだろうか。


実は緒川たまき、まだ若い頃に「ナチュラル・ウーマン」という映画で裸体を披露している。映画の中では普段の印象とまるで違い、性格のきつい、性に貪欲なキャラクターを演じていた。裸体どころか、女性相手のからみシーンまで演じてしまっている。それを見てもなお、私の中での緒川たまきのイメージが揺るがなかったのは不思議だ。

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書けない文字と逆さま文字


よく言われることだが、コンピュータを使って文章を書いていると漢字が書けなくなる。たまに手書きで文章を書いてみると、つまらない漢字が思い出せず困惑する。まずどの字かわからない。字がわかっても、今度は正しい形がわからない。コトバノツドイなどと標榜しているにもかかわらずこの体たらくである。我ながら心底情けない。

こういう風潮が続くと、字を読むことはともかく、書く力はどんどん衰えていってしまうだろう。私一人に関わらず、たとえば今の子供たちに関してより強い危惧を覚える。コンピュータを使うことを覚えれば必然的に手書きで文章を書くことが減る。文字と言うのは知識だけでなく、感覚的に覚えるところもあるので、書かなければ身につかない。しかし学校のカリキュラムでは、国語の授業などがどんどん削られていっているらしい。文字の書けない日本人が大量に生産され、挙句には平仮名と片仮名だけの表記が標準となる、などということがないことを願う。


文字、といえば、退屈な会議中などに私は左手で鏡文字を書いている。これが意外と難し面白い。最近はもう慣れてきたので、たいがいの字は汚いながらも書けるようになったが、最初の頃は逆向きに書こうとしているのに普通の向きに書いてしまったり、字のバランスや大きさが崩れまくったりして大変だった。

そうやって慣れぬ書き方で字を書いていると、字の形に意識が行き渡る。普段何気なく書いている字でも、書きにくい、とか、判りにくい、ということがよくわかるのだ。そしてよくよく考えてみると、それらの「書きにくい」文字は、子供たちがよく間違えたり、歪んだ形で書いてしまう文字とよく一致する。

たとえば「す」や「よ」という字を書く場合、丸になっている部分を逆向きに書いてしまったりする。濁点を右側に振るのか左側に振るのか判らなくなる。「え」や「ら」などの上の点の向きも間違いえる。「れ」などの文字は非常に歪む。「を」などは考えながら描かないと、折り曲げる方向を間違うし、サイズが大きくなるし、ぐちゃぐちゃな文字になってしまう。

平仮名に限らない。漢字でも案外に書きにくい文字がある。例えば「女」。この字を左手でバランスを取りながら書くのはなかなか難しい。「近」などの之繞(しんにょう)のクネクネしたあたりは左手ではなかなかうまく書けない。「飛ぶ」などの漢字は無意識のうちにさっと書いてしまっているが、左手で形を考えながら書くと思い出せなかったりする。「示」のハネの方向が逆になる。「鬱」なんて複雑な文字はものすごく巨大になる。「成る」の最後の点を打つ場所に迷う。「書」や「業」の横線の数に戸惑う。「旅」や「縁」の右下の部分も意外と難しい。

こういう細部を覚えているのは、知識と言うよりはやはり「手の慣れ」だと感じた。嫌で嫌で仕方のなかった漢字の書き取りも、そう考えれば無意味ではなかったのかもしれない。

また、こうやって自ら間違えてみることで、子供がなぜ字を間違えるのか体感することができる。大人が「なぜこんな簡単なことができないんだ」と思うかもしれないようなことでも、慣れていなければ案外に難しいということはたくさんあると判る。


最後にどうでもいい話。左手で書いた鏡文字はバランスもサイズも滅茶苦茶だが、それを反転して見て見ると、ヘタウマのそれなりに味わいのある文字に見えたりする。

ジャンプ、サンデーの感想について

一時期書いていたジャンプ、サンデーの感想を最近書いていない。毎週同じようなことしか書いてないような気がしてやめてしまった。たまにどうしても書きたいことがあったり、他に書くことがないときなどに書いてみようかな、と思っている。


しかし今週のジャンプはすごかった。読みきり3連発。富樫効果でレギュラーがどんどんサボっているのではないかと勘ぐってしまうほどだ。それでも読みきりが面白ければいいのだが・・・ねえ。久々なのでちょっと感想も書いてみる。

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