コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

書けない文字と逆さま文字


よく言われることだが、コンピュータを使って文章を書いていると漢字が書けなくなる。たまに手書きで文章を書いてみると、つまらない漢字が思い出せず困惑する。まずどの字かわからない。字がわかっても、今度は正しい形がわからない。コトバノツドイなどと標榜しているにもかかわらずこの体たらくである。我ながら心底情けない。

こういう風潮が続くと、字を読むことはともかく、書く力はどんどん衰えていってしまうだろう。私一人に関わらず、たとえば今の子供たちに関してより強い危惧を覚える。コンピュータを使うことを覚えれば必然的に手書きで文章を書くことが減る。文字と言うのは知識だけでなく、感覚的に覚えるところもあるので、書かなければ身につかない。しかし学校のカリキュラムでは、国語の授業などがどんどん削られていっているらしい。文字の書けない日本人が大量に生産され、挙句には平仮名と片仮名だけの表記が標準となる、などということがないことを願う。


文字、といえば、退屈な会議中などに私は左手で鏡文字を書いている。これが意外と難し面白い。最近はもう慣れてきたので、たいがいの字は汚いながらも書けるようになったが、最初の頃は逆向きに書こうとしているのに普通の向きに書いてしまったり、字のバランスや大きさが崩れまくったりして大変だった。

そうやって慣れぬ書き方で字を書いていると、字の形に意識が行き渡る。普段何気なく書いている字でも、書きにくい、とか、判りにくい、ということがよくわかるのだ。そしてよくよく考えてみると、それらの「書きにくい」文字は、子供たちがよく間違えたり、歪んだ形で書いてしまう文字とよく一致する。

たとえば「す」や「よ」という字を書く場合、丸になっている部分を逆向きに書いてしまったりする。濁点を右側に振るのか左側に振るのか判らなくなる。「え」や「ら」などの上の点の向きも間違いえる。「れ」などの文字は非常に歪む。「を」などは考えながら描かないと、折り曲げる方向を間違うし、サイズが大きくなるし、ぐちゃぐちゃな文字になってしまう。

平仮名に限らない。漢字でも案外に書きにくい文字がある。例えば「女」。この字を左手でバランスを取りながら書くのはなかなか難しい。「近」などの之繞(しんにょう)のクネクネしたあたりは左手ではなかなかうまく書けない。「飛ぶ」などの漢字は無意識のうちにさっと書いてしまっているが、左手で形を考えながら書くと思い出せなかったりする。「示」のハネの方向が逆になる。「鬱」なんて複雑な文字はものすごく巨大になる。「成る」の最後の点を打つ場所に迷う。「書」や「業」の横線の数に戸惑う。「旅」や「縁」の右下の部分も意外と難しい。

こういう細部を覚えているのは、知識と言うよりはやはり「手の慣れ」だと感じた。嫌で嫌で仕方のなかった漢字の書き取りも、そう考えれば無意味ではなかったのかもしれない。

また、こうやって自ら間違えてみることで、子供がなぜ字を間違えるのか体感することができる。大人が「なぜこんな簡単なことができないんだ」と思うかもしれないようなことでも、慣れていなければ案外に難しいということはたくさんあると判る。


最後にどうでもいい話。左手で書いた鏡文字はバランスもサイズも滅茶苦茶だが、それを反転して見て見ると、ヘタウマのそれなりに味わいのある文字に見えたりする。