コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

揺らぐ


語尾が揺らぐ。口調が揺らぐ。気分によって内容によって状況によって揺らぐ。なるべく堅めの文章を書こうと心がけているが、そのように書いていると「俺ってかっこつけてるだけじゃないのか」と恥ずかしくなってくる。そこで口調を和らげる。口語っぽい、チャットっぽい砕けた口調で書く。今度は「これってちょっと慣れなれしいくないか? 日記で軟らかい口調というのも軽薄っぽいな」などと悩み始める。そしてまた堅い口調に戻してみる。

人の日記を読んでみると、堅い文章、軟らかい文章、それぞれに面白い。両方を巧みに織り交ぜている者もある。堅い文章は素直にかっこいい。小説のようにきっちりと流れを持たせて書く人もいる。日記をまるで文学のように書く人さえいる。羨ましい。一方で軽く砕けた感じで書く人の場合は、ユーモアに満ちている。読んでいて楽しい。まるで話を聞いているような軽快さで文章が流れていく。これもまた羨ましい。

また自虐になるが、私の文章の場合、堅く書いても中途半端でかっこよくないし、軟らかく書いてもユーモアがないような気がする。文章でユーモアを出すとういのは難しい。私にとっては特に難しい。そもそも最近は会話でも人を笑わせるようなことを言うことが少なくなっているような気がする。それでも、私にはここにしか頼るところがない。文章を書くということでかろうじて己のアイデンティティを保っている嫌いがある。だから書く。時に書くことが苦痛であってもやはり書くしかない。

書いていれば何かが残る、何かが生まれる、そして己が成長する。かつてはそう思っていた。しかし年を経るにつれ、多くの創作や文章を目にするにつけ、それは必ずしもそうではないということを知るようになった。私は果たして成長しているのか、文章を書けば書くほど面白い文章が書けるようになっているのか。答えは否。こういう言い方は語弊があるかもしれないが敢えて言わせてもらえば「文章なんて誰でも書ける」のだ。ただ書くだけでは何も進歩しないという現実を今思い知っている。

それでも「何かを書く」という行為自体には価値があると思う。いやそう思いたい。書くことにより、日常の中のささいなことでも気にとめるようになり、自分の脳内の整理もできる。他人の考えや書いたものにより興味を持つようになり、また非常に稀ではあるが、私のような者でも人に影響を与えられることもある。

ノイズを撒き散らしながら私は書く。そのノイズの中に1%だけでも価値のあるものが混ざっていたのならば、それは無駄ではないのかもしれない。それともけっきょくは資源と労力と他人の時間の無駄遣いなのだろうか。言葉と共に私の価値観も常に揺らいでいる。