コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

アーチストとアーチザン


id:ain_ed氏の「アーティストとデザイナー」を読んで。この二つの対比には私も以前から興味を持っていた。芸術家(アーチスト)でも職人(アーチザン)でもない私が口をはさめるような立場にないことはわかってはいるが、その議論の場にいたら絶対に口を出さずにはいられなかっただろう。かといって、私とて明確な答えにたどり着いているわけではないのだが。

どちらにつくのかと問われれば、私はどちらの肩を持つこともしないと答えるだろう。中庸とか逃げとか思われるかもしれないがそうではない。私は、アーチストとアーチザンというのは対極にある概念だとは思わない。いわばそれを両立させることができる者こそが、究極の芸術家であり、究極の職人なのではないかと思っている。


以前、映画監督の岩井俊二が言っていた。「映画監督というのは、一見アーチストに見られがちだが、現像や編集などは経験と知識がものを言う職人的な作業だ」と。彼の作品はストーリー的にも見た目的にも幻想的であったり、劇的であったりと非常に芸術性が高いと思う。しかしその岩井俊二をして、映画監督は職人であると言わしめているのである。

確かに、どんなに良いアイデアやセンスがあっても、それを形にして人に伝える技術がなければ意味はない。どう焼けばどういう色がでるか、どうつなげば人にどう見てもらえるか、そういう知識や経験、そして腕を身につけてようやく本当の映画監督になれるのではなかろうか。「たまたまうまくできた」では職人としては当然として、芸術家としても成り立たない。

例えば茶器などを考えてみても同様である。現在、国宝や重要文化財となっている茶器を作った者たちは、果たして己を芸術家だと思っていただろうか。彼らはただひたすら職人としての道を極めるべく茶器を作っていたのではないだろうか。基本を収め、さらに高みへと上るためにその作品を変化させ、新しいことを取り入れ、芸術とよばれるまでの茶器を作り上げた。彼らはまごうことなき職人であり、そして芸術家でもあろう。

要は、アーチストとアーチザンというのは対極にあるわけではない。かといって完全に別の次元のものでもない。片方が片方を邪魔する、という場合も多々あるだろう。商業的な思惑が自由な創作を邪魔することもあるだろうし、独り善がりな作品に走りすぎては誰にも認められないものばかり生まれてしまうこともある。かといって両者が絶対に両立しないというものでもない、というのが私のスタンスだ。

ただし商業的なことばかり追求しているモノを芸術と呼ぶことには私も抵抗を感じるし、かといって観客をまるで意識していないものを芸術と呼ぶのもまた憚られる。かといって中庸が良いかというとそうでもない・・・難しいところだ。


言葉と芸術について。言葉が、ある芸術作品の全てを表すことはできない。言葉で全て表現できるのであれば芸術はいらない、という意見には同意する。しかしながら芸術に言葉は不必要かというとそうではないと思う。例えばマグリットの絵画。彼の絵はそのタイトルによって深みと重みを増している。言葉は万能ではないが魔法的である。言葉により作品の評価や性質が変えられることも珍しくはない。*1

また第三者に良いものを伝えようと思うのであればやはり言葉を媒介とするしかない。言葉で全て説明できる芸術はないが、言葉で何も説明できない芸術もまたない、と思う。


なんだかまとまりのない文章になってしまった。でもこういうことをだらだらと考えているのは楽しい。

*1:もちろん、悪い方に影響を受けることもあるわけだが。