コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

深い話

最近深い話をしてないことに気づく。人生について、恋愛について、社会について、人とは何か、生きるとは何か、絶望とは、死とは、宗教について、理想について、将来について、現実について。複数人で、議論のように雑談のように、そんな考えてもどうしようもないことをとうとうと語り合うようなことを、ここしばらくずっとしていない。

学生時代は、研究室やサークルで無駄にそういうことを話していたような気がする。友人と恋愛論について語ったり、後輩と死刑について議論したり。具体的に何を話していたのかは覚えていない。そもそもそれは本当に深い話だったのか、と問われると、はっきりとは答えられない。しかし何かしらを必死になって話していた記憶はある。深い浅いは、話の内容の深さではなく、話している私の側の没入の度合いなのだ。最近はそういう「深い」会話をあまりしていないように思う。

もちろん、相方との会話はある。相方はおそらく私が出会った女性の中では最も私の言葉を理解してくれる人間だ。私のわけのわからない言葉をただ「聞く」だけではなく、その言わんとすることを理解してくれる。単に意味を受け取るだけではなく、その意図を察してくれるのだ。人と人とのコミュニケーションにとって、これはおそらく最も大切なことだと思う。とはいえ、もう相方との付き合いも長い。お互いの考え方、物事の見方はだいたい分かっているので、もう多くの言葉がなくてもたいてい理解しあえてしまう。だからこそ逆に「熱く語る」ということが必要なくなってしまっているように思う。

掲示板などで議論を交わすことはある。しかしそれはあくまでも文字の上でのやり取りだし、顔の見えない、匿名性の中での、個性の消失したやり取りだ。顔を見ながら会話するのとはまた違う。それに掲示板上の議論では、議論を重ねて知識や考察を深めるというよりも、「己の正しいと信ずるところを押し通す」形になってしまい、あまり実のある議論にならないことが多い。これはおそらく参加している私の側にも問題があろうが、私だけではなく、一般的に見られる傾向だとも思う。ゆえにどんなに議論をしても、どことなくわだかまりが残り、「語った」という満足感は得られない。


しかし一方で、「深い議論を欲すること」の愚かさも感じる。そんなものは求めるものではない。自然の流れで会話の中に表れてくるものなのではなかろうか。もちろん、「さあ議論をしよう」などと言ってはじる議論もあるし、それを否定するものではない。しかしそれはまた「議論を演じる」ことであり、欲望の赴くままに言葉を吐く素直な語りとは趣が違う。

かといっていまの日常生活では、そんな自然な議論や深い話をする場が皆無だ。職場の先輩や後輩と話すのはそれはそれで面白いが、いきなり真面目な話ができる雰囲気でもない。だいたい、学生みたいな「話ても実にならないこと」を振っても乗ってきてくれるかどうかわからないし、仮に乗ってきてくれたとしても、浮いてしまうことは否めないだろう。


そんなことを考えていると昔が懐かしくなってくる。しかし昔の仲間になっても、きっと昔と同じような話はできないだろうな、とも思う。やはり変わってしまったのだ。しかし語れなくなったのは環境のせいだけではない。おそらく私自身も、諦観と自嘲の末に、語る言葉を失ってしまっているのだ。これがあるいは「老いること」なのだろうか。