コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

見る側としての面白さ

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ココヴォコ図書館」での「物語の面白さ」を読んで。彼の記している面白さの話とは少しずれるかもしれないが、私なりに考えた「面白さ」につていの話。


映画などの感想を書いたりしているが、この行為は「面白さ」の洗い出しに他ならない。作品を見る。そして面白いだの面白くないだのと感覚的な評価を下す。普段ならそれで終り。面白かった、面白くなかった、好き、嫌い、それだけでよい。しかし感想を書くとなるとそれだけでは人に伝わらない。「何が面白かったのか」「なぜつまらなかったのか」を考え、言葉にせざるを得ない。面白さの分析とまでは言わないまでも、自分が面白いと感じた部分を抽出する行為であることは確かだ。

しかし私の場合、「面白い」と思うポイントは、作品によってまったく変わる。ストーリー、キャラクタ、世界観、映像美、アクション、テンポ、笑い、どんでん返し、恐怖、予定調和、理不尽さ、オリジナリティ、カタルシス、緊張感、ナンセンス、世間の流れに逆らったもの、パロディ、成長劇、ドンデン返し、カット、あるいは単に役者や音楽がツボに入ったということで評価するものもある。作品によって、そして時と場合によって注目する点、評価する点がコロコロと変わる。しかも場合によっては異なる作品の同じ要素に対してまったく逆の評価を下していたりする。

けっきょく私の感想というのは「後付けの理由」でしかないのかもしれない。本格的な批評家ならともかく、一般人の私では感覚的に物事を考え、後でもっともらしい理由を付けることしかできない。特に私は理系頭のくせに感覚的にものごとを見るので、「感覚ありき、屁理屈で後付け」ということが多いのかもしれない。


けっきょくは定性的に何を面白いと感じるのか、いまだに自分でもよくわからない。単なる感情の記述に過ぎないのが現状だ。それを的確に表現できるようになればいいのだが。否、単に的確に、ではなく、その感想でまたひとつの新しい「面白い」が生み出させたらいいんだけど。なかなかムズカシ。