コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

宗教とは何かとは何か

ブクマにあったので気になって読んでみたのだが。

日本人の宗教嫌い | iwatamの個人サーバ

日本人が宗教を全てカルトとみなして忌避している嫌いがあるというのは面白い観点だと思う。この一連のコラムが全体的に述べている「皆もっと宗教に興味を持った方がいいよ」という主張に対しては概ね賛成。

しかし宗教の捉え方について少々納得がいかない。端々にちょっと納得のいかない話が入っていて、全体的に批判的な話になってしまったけれど。

この世の中に「唯一絶対なる存在(神)」が存在するだって?そんなのあるわけない。

「人生かくあるべし」とか「精神のレベルを上げる」とか、下らねえ。腹が減ったら食べる。眠かったら寝る。それでいいじゃん。

この世に正義とか悪とか、そんなものねえんだよ。

秘法とか修行と称してなんだかわけのわからん事をして何になるというんだ?あいつらバカだね。神秘体験なんてヤクでラリってるのと同じだ。

もし上の考え方に対して、「うんうん、その通りだ」と言う人がいたら、その人は無宗教ではない。立派な仏教徒である。彼らは自分を無宗教だと思っているが、それは「宗教に入る」というアクションをしていないからそう思っているだけで、実際にはじわじわと仏教に染まっていたのだ。特に「唯一絶対のものはない」が仏教の根本理念である。あとのことはそこから導き出されるものだ。だから、これを信じていれば仏教徒だと言っていいだろう。

これは単に「仏教的な考えに符合する部分がある」というだけで、仏教的な考えをしているわけではない。

そもそも仏教の言う「諸行無常」はそんなに簡単なものではなかろう。「あなたはここに居るのか」「世界は存在するのか」そういう問いからはじまり、「そもそもあるべき姿を考えることそのものが執着ではないのか。ならばあるべき姿を求めないことが理想なのか。あるべき姿を求めなくてどうやってそこへ到達できるのか。また、あるべき姿を求めない姿勢を理想とするのもまた執着ではないのか」という矛盾を越えた先に行かなければ仏教的な考えとは言えまい。当然これでもまだまだ全然足りないけど。

また「唯一神を信じない」と言っている人たちにも、仏教的思想と相反する部分もたくさんあることだろう。それらを議論せず、似ている部分だけを取り出して「だから仏教徒である」と結論付けるのはいささか乱暴な話ではあるまいか。

宗教を批判する人のほとんどは的外れである。彼らは宗教を知らない。せいぜいカルト宗教が言っている表面的な教義を知っているだけだ(カルト宗教には表面的な教義しかないわけだが)。そして、宗教=カルト宗教という枠から外れることができない。

うーん・・・。もちろん宗教には良い部分もある。しかし古くからある有名な宗教も、歴史を紐解けばたいていはカルト的な暗黒面を見せた時期があった。それらは分裂を繰りかえし、仲違いし、時に殺し合いや魔女狩りを繰り返して今に至るんだけどね。

全ての宗教がカルトである、とは言わない。しかし全ての宗教がカルトの種を孕んでいることは事実だろう。これは宗教に限らず、集団ならば常に持ち得る暗黒面だが、宗教は俗が不可侵な聖の領域を持つがゆえに、カルトに傾倒しやすいことは否めまい。

もちろんだからといって今真っ当な宗教をカルトと一緒にして批判するのが妥当だとは思わないけどね。ただ黒い歴史があることやカルトの種を孕んでいることまでも忘れてしまうのは危険だと思う。

実を言うと、仏教もキリスト教もそれ以前の宗教に対する批判の上に成り立っている。だからこそ宗教批判は見ていておかしいのである。カルト宗教を批判してすべての宗教を批判したつもりになって喜んでいるが、その行為そのものが本来の宗教なのである。

「仏教もキリスト教もそれ以前の宗教に対する批判の上に成り立っている」からといって、宗教批判するものがすべて宗教であるというのはまた乱暴な論理だ。それは宗教ではない。単なる批判だ。たまたま宗教者がそういう手段を使ったことがあるというだけのこと。


この考えの齟齬は「宗教」の定義の違いによるものだろうなあ、と思っていたら、別記事でそれについての話もあった。

宗教とは何か | iwatamの個人サーバ

宗教団体に入っているから信者なのではなく、信者だから宗教団体に入ろうと思うのだ。

これはニワトリが先かタマゴが先か、って話だなあ。(教祖も含め)信者がいなければ宗教団体は成り立たない。宗教団体(その宗教に属する集団)がなければ信者は存在し得ない。

団体というのを法的にかっちりと決められた団体であるというのなら上記の通りなのだが、人間の社会行動としての集団とみなすのであれば、「信者」と「宗教(団体)」は不可分。信者ありきの宗教だし、宗教ありきの信者。だと思うんだけどなあ。

ある宗教の信者になるというのは特定の団体に入ることでもなければ儀式をすることでもない。その宗教が教える考え方を受け入れるということだ。宗教団体や儀式は考え方を受け入れる手助けをするためのものである。教えこそが宗教なのである。

やはり私の「宗教」の定義とはかなり違うなあ。私の考える宗教の定義については以前に書いた通り*1だが、その3つの条件「儀式」「聖と俗」「集団」のどれとも符合してない。そりゃ考え方も違ってきますわな。

宗教というものの捉え方について、どれが正しい、ということは簡単には言えないと思う。おそらく十人居れば十人それぞれに宗教の定義があるだろう。しかし無宗教でも反宗教でも科学でも、なんでもかんでも宗教にしてしまえばいいというものではないと思うのだが・・・。教えこそが宗教であるという巨大な括りで宗教を定義するのなら、人間の思考や精神活動はすべて宗教になってしまうのではあるまいか。


それと、仏教についての捉え方もちょっと・・・。

仏教の教えとは何かというと、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三大原理とそこから導かれる数々の教えである。もちろん、この言葉を知っていることが仏教なのではない。こうした言葉が語っている内容、簡単に言えば「すべてのものは移り変わる」「すべてのものに目的などない」「だから何物にもとらわれるな」という教えが仏教である。こうした考え方を少しでもかじっていれば、そしてその通りだと思っているなら、それは仏教徒である。

仏教ってそんなに単純なものなんですかね・・・。ある宗教と同じ要素があるだけでその宗教の信徒だと断じてしまうことにはいささか抵抗を感じる。この定義だと、後先のこと考えずに好き勝手やってる人が一番敬虔な仏教徒になってしまいそうな気がしますけど。

宗教を信じるというのはこのように自分の頭の中だけの問題である。解釈もその人によって幅がある。そしてその結果何をするかはその人次第だ。結果である行動だけを見て宗教を考えてはいけない。宗教は人の行動について言う言葉ではなく、概念について言う言葉である。

ああそうか。根本的に視点が違うんだ。私は宗教を人間の集団行動の一様式として捉えてみている。この人は宗教を個人的な体験として捕らえている。だから視点が180度違うのか・・・。いや、それでも180度違うってことにはならないはずだぞ・・・。うーん・・・。

カルトというのは教えいかんに関わらず「人間の集団」が産む歪みだ。いやむしろ「教え」はそういう集団によって曲解され、利用されていくものではあるまいか。

ならば教えを常に個人的に突き詰めていけばカルトに陥る危険はない、という主張なのかもしれない。そういうことであれば理解できるような気がしてきた。

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*1:id:tetsu23:20051024:religion