コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

生の意味

id:ain_ed:20041101#p1氏の「何のために生きているのか、と問われたら?」を読んで。以前に「死」について書いてもらったことのお返し、というわけではないが、私も少し「生」について書いてみようと思う。

とはいっても、私には彼ほどの明確な「生」への思いがあるわけではない。私がいま感じている「生」とは極めて消極的なものだ。「生」とは単に「死を選ばない」という意味のものでしかない。

個人的には「死ぬことによって他人に迷惑をかけたくない」という思いがある。私が死ねば家族が困るし、悲しんではくれるだろう。そういう迷惑を掛けたくはない。だから今は死ねない。

もっと普遍的な「生の理由」を述べるとするならば、人は「死を恐れる」から生きているに過ぎない。私もそうだ。死ぬのは怖い。死そのものへの恐怖もあるし、死への過程にある苦痛にも恐怖を感じる。とにかく人は、死を避けたいがために生きている。

私の言う「生」の定義は、ひどく消極的なものであると言ったが、むしろ消極的であるからこそ多くの人に当てはめることができる。生きていることそのものが、否、「死なないこと」こそが人の生きている理由。それ以上の意味など必要はないのではなかろうか。

結局のところ、「死なないこと」以外に生きていること自体に意味を探しても、見つかるはずはないのではなかろうか。そんなものは死者にしかわからない。


しかし世の中には、「死」をさえ恐れない人がいる。あるいは「生」よりも「死」を選ぶ人さえいる。彼らの中では生存本能という生物の最も基本的な本能が壊れているのだ。それを越えるだけの社会的圧力がかかったということなのだろう。あるいは他の外的要因や先天的要因で壊れている場合もあるかもしれない。一般的な人間は、こういう人を恐れる。それはなぜか。おそらく彼らの考え、彼らの存在が「生きる」ことそのものを揺るがしてしまうからではないだろうか。だから人は、自分に関係のない人間の自殺でさえも止めようとするのではないか。「家族が悲しむからやめなさい」とか「生きていればいいことがある」なんて説得をするが、その奥の奥には、「死なれると自分が困るから」という気持ちがあるはずだ。


こんなことを書いていると、死や生に関して酷くドライな人間だと思われてしまうかもしれないが、実際にはそんなことはない。自殺はダメだと思うし、自爆テロなんてバカげていると思う。何しろ私も、自分の死、だけではなく、他人の死も恐ろしいと思ってしまう人間なのだから。


しかしこれは所詮頭の中だけの認識でしかないのかもしれない。自らが死に直面したとき、あるいは身近な人間の死を迎えたとき、もっと血肉を持った生の認識を得られるのかもしれない。なるべくそういう体験はしたくはないのだが、生きている限り避けては通れぬ道だから。