コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

助けられた子

テレビを見ていると、土砂崩に飲み込まれ、奇跡的に救出された例の子供の特集をやっていた。地震によって不幸にも土砂崩れに巻き込まれてしまった人を悼む気持ちはある。また1人だけとはいえ奇跡的に助かってよかった、思う気持ちもある。そして母親を失った子供だが、この先がんばって生きていって欲しいと願う気持ちもある。その程度の一般的な感情はある。

しかし一方で、果たしてその事件をそれほど集中的に取り上げる必要があるのだろうか、とも思う。確かに、あれほど酷い土砂崩れの中、四日ほども土中に閉じ込められたにも関わらず、無事に救出されたというのは劇的な出来事だ。しかし、「なぜ生き延びられた」だの「どうやって救出した」だのをしつこく繰り返し繰り返し報道することに何の価値があるというのだろうか。それは単に「視聴者の興味を満足させる」というだけのものでしかない。そこにはなんら本質的なものがない。その事故を分析することによって何か将来の対策や教訓につながるかというとそういうこともない。その報道によって子供や遺族の気持ちが救われるかというと、それもないだろう。むしろむやみやたらと報道されることによって、周囲に騒がれてしまうことは、遺族にとっては迷惑にしかならないのではなかろうか。けっきょく、いま報道がやっていることは、劇的な救出され、親を失った悲劇の子を面白おかしく材料にしている、に過ぎないのではないか。

たとえば、阪神大震災のときには、同じような状況の人や、もっと酷い目にあった人もたくさんいた。地震ではなくとも、毎日誰かが交通事故で亡くなっている。事故で両親を失い、子がひとり取り残されるようなケースも珍しくはないだろう。しかしそういうものを集中的に何日にも渡って取り上げる、ということはまずない。

テレビ局が視聴率によって成り立っていることはわかっている。しかし報道くらいは、そういう利害を無視してもっと冷静に報道して欲しいと願う。もっと報道すべきことは他にあるだろう。今、被災者が何を欲しているのか、助けたいと思う人は何をすればいいのか。助けたい人が良かれと思って物資を送ることで、逆に被災者側に荷物が多量に届き、収集がつかなくなったりもしているらしい。阪神の地震の際には、「支援物資」と銘打っていらなくなった服や毛布を送りつけた人もいたと聞く。そんなものを送られても実際にはまともに使えなかったらしい。送る側が何を思って送ったのかわからないが、「正しくない支援」は迷惑にさえなるのだ。報道はそういうことを踏まえ、「正しい支援方法」などをもっと頻繁に報道すべきなのではなかろうか。

また、地震の方ばかりが騒がれ、台風被害で大変なことになった豊岡などにはほとんど支援がなくなってしまったらしい。そういうことも、報道の偏向のせいだ、としてしまうのはいささか過言か。

しかしともかく、報道は劇的なものばかりではなく、「本当に必要なこと」をもっと考えるべきではなかろうか。最終的にはそれが「報道への信頼」につながり、テレビ局の利益にもなると思うのだが。