コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

私は死を知らない


知人が自転車で転んで入院している。蓋のついた溝の上を走っていたら、途中で蓋が途切れて溝の中へダイブ。そのまま溝の過度に顔をぶつけたらしい。鼻の中か何かを手術するということでしばらく入院となったということ。聞いているだけで痛くなってきそうな話だ。まだお見舞いに行っていないので、今週末あたりに行く予定。

彼は命に別状はなくピンピンしているが、こういう感じで突然知人がこの世の人ではなくなってしまうこともあるのかなぁと変に感傷的になってしまった。


実際にいままで、同級生が2人ほど事故でなくなっている。

一人は中学、高校と一緒だった男だった。それほど親しいわけではなかったが、私の中学からその高校に行った男子は4人しかいなかったので、比較的よく知った奴ではあった。深夜に自動車を運転していて、救急車と正面衝突して亡くなったらしい。通夜と出棺に顔を出した。ご両親に何を言っていいのかわからず、無言で亡くなった彼の顔を見させてもらい、心の中だけで声をかけてそそくさと帰った。そんな私にも「来てくれてありがとう」と言ってくれたご両親の言葉をまだ覚えている。私はありがとうなんて言われるような人間ではなかったのに。

彼が亡くなったのは私が毎日大学に行くときに通っていた道で、毎日そこを通るたびに、新しい花が供えてあるのが目に入った。小さな工場の社長の息子で、親としては会社を任せようとかいろいろ考えていたに違いない。親としてはやりきれない気持ちだっただろう。


もう一人は高校のときの同級生。明るくていつも冗談ばかり言っていたクラス内のムードメーカー的な男だった。イングウェイの信望者で、本人もバンドでギターを弾いていた。そのくせものすごく礼儀正しい男で、私と親の話をしているときも、「○○のご両親は〜」「〜していらっしゃるんか?」などと、当時の私ではまず出てこないような言葉をさらさらと話していたことが強く記憶に残っている。

彼の死は間接的に知った。大学当時、警察の科学捜査研究所の人と一緒に研究をする機会があった。その人と雑談しているときに、私と同い年くらいで同じ高校の男が、1週間くらい前にバイク事故で亡くなったという話になった。名前を聞いてみると、私と同じクラスだった彼だった。卒業後は個人的な付き合いはなかったし、当時も今も同級生と連絡をとるということのない私なので、そういう事後報告の形でしか彼の死を知ることはできなかった。彼が卒業後どういう人生を歩んでいたかは知らないが、同窓会などで会って話をしたいな、と思うような相手だっただけに、その死はショックだった。


しかし一方で、私はまだ本当に身近な人間の死を体験したことがない。最も近い人でいえば、高校の頃に祖父がなくなった。しかし当時祖父とは一緒に暮らしてもなかったし、両親との折り合いもあまり良くはなかったので、特別悲しいという感情もわかなかった。漠然とした空虚感と、生きている間にもう少し優しくしてあげればよかった、という後悔だけがあった。

しかしそろそろ、私も周囲の人間もそれなりの年齢になってきた。祖母はもう九十を数える。父も心筋梗塞で何度か倒れ、入院したことがある。もっと若い肉親が事故でなくなる可能性だってある。いままでそういう悲劇に直面してこなかった私には、身内の死への耐性があるかどうかもわからない。本当に身近な人間を失ってしまったときに、私はどうなってしまうのだろうか。

新潟の自身なども関係しているかもしれない。病気や、突然の事故、天災で家族が亡くなる。それは虚構や物語ではなく、いつでもどこにでもある現実なのだ。こうことはきっかけがあるごとに思い返し、考えている。自分の死も恐ろしいが、他人の死も同じかそれ以上に恐ろしい。それは他人への同情ではなく、他人を失うことへの恐怖だ。他人のためではなく、自分のために感じている恐怖でしかない。私はその恐怖感、虚脱感、失望感、絶望感に果たして耐え切れるのだろうか。

自転車で溝にはまって事故った彼は元気に生きているので、こんなことを考ええてしまうのは不謹慎かな。でも彼に大事がなくて本当によかった。