コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

感覚の情報化


id:KEN_NAITO*1の「理系的想像」を読んでいて思ったことをつれづれと書いてみる。思いついたことを思いついたまま書いていくので、支離滅裂でまとまりがないのはご容赦を。

他人の情報を直接脳に叩き込むというのはどういう感覚なのだろうか。非常に興味深いことではあるが、しかし一方で不安も感じる。

他人の情報を脳内で再生する場合、情報を捉えることはできても、こちらからその世界に干渉することはできない。しかも自分とは全く違う人間の視点で捉えた世界を追体験するのである。その世界を一方的に体感させられるのは、たとえそれが快感や喜びを伴うものであったとしても、ものすごく不安で不安定なことではないかと思う。言わば身動き一つできない夢。自分の意志が全く反映されない夢を強制的に見させられているような感覚。

そもそも夢というのは、疑似体験そのものだ。視覚はもちろん、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、すべての感覚を擬似的に再現する。時には高所からの墜落や爆発に巻き込まれた熱感覚など、体感したことのない感覚をも創造し、再生することもある。それは恐怖の具現化であったり、現実の問題や悩みの感覚化であったりする。しかし夢にはまだ己の意思が介在する余地がある。その自由は制限されているとはいえ、完全に自由を奪われる追体験とはやはり違う。その夢でさえ、どこかで常に不安を内包しているのである。まったく自由の奪われた感覚の再生ではどうなってしまうのか。

悪い感覚ならなおさらだ。例えば擬似感覚の記憶を拷問として使うとなれば、他のどんなきつい拷問よりも激しい責め苦を与えることができるだろう。実際に誰かを拷問にかけ、その感覚を情報として記録し、別の誰かに追体験させる。単なる責め苦だけではなく、確実に死に至るような痛みや傷を与えることだってできるのだ。終わることなく、留まることのない苦痛・・・。こんな恐怖は他にあるまい。しかし感覚の情報化が実現すれば、おそらく誰かが必ずそのような使い方をしてしまうだろう。どんなに拷問をしても肉体的な証拠は一切残らない。どんなに責め苦を与えても、ショック死以外の要因で死に至ることもない。これほど効果的かつ安全な拷問は他にないのだから。


もうひとつ気になった点。視覚情報というのは、目に入ってから二度、三度とフィルタリングされ、脳内で抽象的な情報として処理される。どの時点での情報を取り出すかによって、その情報は大きく異なってくる。

網膜に映った情報を取り出せば、ビデオで映像を再生したときのように、そのままの映像が取り出せるかもしれない。この場合、すべての人は同じ映像を見ることができるが、その情報は受けて側それぞれで処理され、最終的に脳が受取る情報は必ずしも同一になるとは限らない。

網膜に映った映像情報はまず視神経によってフィルタリングされ、形として抽出される。丸とか四角とか、線とか平面が判別されるのだ。いわゆる物体の抽出。この時点で信号を抽出したら何が得られるのだろうか。素人判断だが、漫画やイラストのようなデフォルメされた絵が取れるような気がする。

最後に、脳によって映像情報が抽象化される。目に映るものが物として判断され、人などの場合は個体が識別される。情報が脳内の記憶と結び付けられるのだ。ここまでくると完全に情報は抽象化され、どこに何がある、という文脈で表現できるほどの高次のものになっているはずだ。

しかしここまで高度化された情報は、それぞれの個人に特化されたものであり、他人に注入しても何のことかわからない情報になっているのではなかろうか。いやそもそも脳内の電気信号というのは、シナプス間を伝達するだけのもので、その電気信号そのものには情報など乗っていないはずだ。ネット上の情報のように、電気信号それ自体が情報を持つものではない。それらの電気信号はシナプス間を伝達することによって意味を持つのだ。

また仮に脳内の電気自体に情報が乗っていたとしても、それがネット上の情報のように、どんなプラットフォームでも共通しているとは限らない。いやむしろそれは元々共有を前提としない情報なのだから、共通化されているはずがないのではなかろうか。

どちらにしても、「同じシナプスを持っていなければ同じ情報は得られない」ということになる。つまり他人との脳内の情報の共有は、実質不可能ということになる。けっきょく情報は「感覚神経レベル」でしか共有できないということになるのだろうか。そうなると、「感覚情報の共有」はできても「意識の共有」は無理、という結論になる。


例えば「攻殻機動隊」での電脳通信も、実際には言語の伝達という形で表現されている。映像情報もビデオの再生のようなものだ。いままでそれは一種のアニメ的な表現かとも思っていたが、むしろどんなに電脳化が進んでも、情報は「そういう形でしか伝達できない」ということのひとつの表現なのかもしれないと思うようになった。

けっきょく人は、どんなに科学や技術を進歩させても「言葉」を捨てることはできない、ということなのだろうか。それともまだ解明されていないだけで、脳内の情報は実は共通している、なんてことがあるのだろうか。

*1:すみません、言及させていただきました。