十月のこと。「かんなづき」「かむなづき」とも読む。十月には日本中の神が出雲大社に集まるため、各地には神が不在となり、そのために「神のいない月」となった、というのが一般的な解釈だ。しかし「かみなづき」の「な」は、本来は「の」の意味の格助詞だそうだ。つまり「神の月」というのが元々の意味ということになる。
そもそも十月(旧暦の十一月)は、収穫を終え秋祭をする時期だ。新嘗祭*1もそうだが、秋祭というのはそもそも作物を与えてくれた神に感謝する祭であり、神が不在では祭をする意味がない。むしろ祭をするからこそ「神の月」となったに違いない。
その「かみなづき」がいつの頃からかその音より「神無月」となり、意味も逆転してしまった。おそらく新暦になったときの月のズレなどもその要因のひとつだろう。しかしこれはなんとも奇妙な話だ。
またそうなると「神在月(かみありづき)*」というのも後付の名ということになろうか。
同様に六月を現す「水無月(みなづき)*」も、本来は「水の月」の意味のようだ。水田に水を引く季節であるから「水の月」。それが「水無月」となり、「梅雨で雨が降り、空の上に水がなくなるから」とか「六月(旧暦の七月)は晴れの日が多いから水がなくなるから」というような意味が後付された。
奇妙ではあるが、意味を変えながらも生きながらえようとする言葉のしぶとさのようなものも感じる。