コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

自殺の箍

学生の自殺のニュースが毎日のように報じられている。数が増えているのかどうかはわからないが、報じられる数は確実に増え、予告連続自殺などのいままでと少し傾向の違う自殺も増加しているようだ。

いままで、学校や教育委員会、国は学生が自殺してもその原因をいじめであるとは認めなかった。それが実態とは異なることを皆知ってはいたが、いじめによる自殺者はゼロであると発表されていた。その事に対しては私も漠然とした憤りを感じたりもしていた。

それが崩れた。いくつかの自殺事件の問題がマスコミで大きく取り上げられ、また世間での現実を秘匿する体質を批判する声が大きくなり、学校や教育委員会が、いじめが原因による自殺の存在を認めた。

それがきっかけとなり、自殺が増えたのではなかろうか。

いままでは自殺をしても、その原因がいじめであると認められることがなかった。死んでもいじめについての調査が深く行われるわけでもなく、いじめていた人たちが批判されるわけでもなく、助けてくれなかった大人たちが非難されるわけでもない。死んだ人間はただいなくなり忘れ去られるだけだった。自殺しても死に損だった。それが意図せぬ抑制効果を生んでいたような気がする。

しかし皮肉なことに、教育機関の隠蔽体質が改善されたことにより、「死ねば問題として取り上げてもらえる」という意識を生んでしまったのではあるまいか。


隠蔽体質は払拭すべきだと思う。そこが改善されないかぎり、いじめ問題へメスが刺し入れられることはない。しかし隠蔽体質が払拭されることで自殺に対する箍が外れてしまったような、そんな気がしてなんだか悲しい。