コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

イギリスのブラックユーモア

だらだらととりとめもなく思ったこと。


かなり昔、「Mr.ビーン」が流行っていた頃の話。このドラマをあまり真剣に見たことはなかったのだが、チャンネルをポチポチとしていたらたまたまやっていたのでなんとなく見ていた。

Mr.ビーンが病院にやってきた。そこへ救急車が入ってくる。Mr.ビーンが車だかカートだかをその救急車のすぐ後ろに停めた。救急車は後ろのドアを開けようとするが、車だかカートだかがひっかかって開かない。観客はワハハと笑っている。

なんだこれ、と。救急でかけつけた人が生死の境を彷徨っているかもしれないのに、それが邪魔されたことで笑ってるってどういうこと? ジョークだと言うのはわかっている。イギリスのジョークはブラックユーモアだとは聞いていたが、しかしこれは笑えなかった。それどころかなんだか非常に不愉快な気分になってチャンネルを変えた。


日本のコントでもこのくらいのことはあるのだが、そのときはなぜかその「ブラックユーモア」というものに酷い嫌悪感を覚えた。それ以来、イギリスのブラックユーモアとはそういうものだと私の中に刷り込まれてしまった。

とあるブログでブラックジョークについて言及されているのを見かけて、不意にそんなことを思い出した。


ブラックユーモアというのは難しい。基本的に黒い笑いは嫌いではないのだが、ふとした拍子にそれが不快感に変わることがある。ブラックジョークとは、笑いと不快の境界線上にあるのだろう。私も人をコキ降ろす笑いに走る傾向がある。時に行き過ぎて人を不快にさせてしまうこともある。それを考えると、ブラックジョークへの不快感はむしろ自己嫌悪の一端であるのかもしれない。

しかし問題はおそらくそれだけではない。問題は「ブラックジョークの強制性」にあるのではないかと思う。ブラックジョークに不快感をあらわにすると「ジョークなのに目くじらを立てるなんて空気を読めていない」という縛りのようなものが生じるときがある。ジョークだから許せ、と言って人を不快にする言動の許容を強制しているような。ジョークであるということが免罪符のように扱われるのだ。特にテレビの笑い声の入ったコメディでは「ここは笑うところ」と強要されているようで非常に居心地悪く感じるときがある。

笑うところくらい自分で決めたい。