コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

言ってはいけないことが一つでもあるのだとするならば、僕は何一つ言えないだろう

これはishmael氏の言葉を借りた自分語りです。

言ってはいけないことが一つでもあるのだとするならば、僕は何一つ言えないだろう

このishmael氏の言葉について考えていた。最初はその意味をつかめなかったが、誤解を恐れず言えば、ようやくおぼろげながらにわかってきたような気がする。

たとえば先日私が書いた、はてなブックマークの暴力性での「死ねばいいのに」に対する批判。私はそういう言葉を「暴力的」と定義し、この言葉は人を傷つけるあるいは不快にさせる可能性があるゆえに、「言ってはいけないこと」とであると規定した。

しかし、「死ねばいいのに」*1に関わらず、何かに対する言葉は常にその対象を傷つける可能性を孕む。ゆえにひとつの言葉を規制するのであれば、それは全ての言葉を規制することに繋がる。

そういうことだろうか。


おそらく似たようなジレンマは私も常に感じている。いや同じだなどとおこがましいにも程があるか。私の場合はジレンマではなく単なる臆病風だ。誰かを傷つけることを、誰かを不快にすることを恐れ、言葉を閉じる。否、恐れているのは誰かを傷つけることそのものではない。そうすることによって私が「そのような人間」として見られることを恐れているだけなのだ。

ゆえに下書だけで埋もれた記事は数知れない。特に最近は多い。先日のブクマの暴力性の話で善人ぶったことを書いたがばかりに、余計に批判的な文章を書きづらくなってしまった。「論に対する批判」と「人に対する中傷」は別物だと思ってはいるのだが、それをはっきりと切り分けるのは難しい。何を書いても誰かを不快にするのではないかと、あるいは第三者から「言っていることとやっていることが違うのではないか」と突っ込まれるのではないかと、そんな心配ばかりしていて書き込めない。そしてたまに思い切って書いてみるとやはり後悔することが多い。


私の場合、「言ってはいけないこと」を糾弾しても、その責任をとって自らを滅することはできない。それだけの主義も器量も度胸もない。自己矛盾を隠蔽で誤魔化す。「言えない」ことを押し殺し、あたかも最初から何もなかったかのような顔で当り障りのない文章を書く。自分の妄想で作り上げたしがらみに絡め取られ、書きたいことも書けず、それでもなおこの場所に固執している。


iduru氏やishmael氏の日記がなくなってしまったのは残念だが、その潔さは少し羨ましくもある。私の執着は解ける気配もない。このネットの移ろいの速さの中で、不安と焦燥と切なさと欲望に取り憑かれながらもう少しうだうだしています。

*1:id:tetsu23:20051128:1133190670