コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

テロリストになる夢を見せていた悪魔は

いまさら「デビル」。

IRA(北アイルランドの武装組織)のメンバーであるフランキー(ブラッド・ピット)がミサイルの買出しにニューヨークへ行き、IRA関係者のはからいで警察官トム(ハリソン・フォード)の家に居候する、という話。

ブラッド・ピットが出ているので見てみた。ブラピが出てなかったらわざわざ見ようとは思わなかっただろう。


これ、たぶん今のアメリカでは放映できないのではなかろうか。テロ賛美と言わないまでも、「テロリストの事情」に同情を寄せるような内容になっている。

IRAは一般にテロリストとのレッテルが貼られているが、この映画の主人公でもあるフランキーには、戦うだけの理由がある。「あんな国じゃなかったら、俺たちは普通の市民だったのに」「人を殺したときは一晩中眠れないことがある」これがフランキーの言葉だ。そこにいるのは感情のない殺戮を繰り返すテロリストではなく、やむを得ず闘う戦士であり、憎しみに捕らわれ苦悩する若者の姿だ。テロリストと呼ばれる者たちも一個の「人間」であり、彼らなりの事情や主義を持って闘っているということを描いている。

憎しみのために復讐をする、報復が報復を呼び戦争や内紛になる。それは悲劇だし無意味なことだと思う。しかしそれは安全で平和な日本に住んでいるからそう思うことであり、たとえばある日突然理不尽に家族を殺されたりすれば、私とてその相手を憎み、殺してやりたいと思うだろう。その怒りや憎しみが力となり、手近に銃があって同士がいれば、戦う道を選ぶこともあるかもしれない。その敵が体制や強者であれば、対立者はテロリストの汚名を着せられる。この映画はテロリストではなく、そういう悲劇に捕らわれた若者の運命を描いている。

映画としてのデキは平凡だと思うが、このようなメッセージの投げかけは今となっては貴重なものなのではないだろうか。


っていうか、それをブラピがやってるからいいんだけどね。あのいつもどこか泣いている少年のような顔が、フランキーの切なさを良く表現していると思う。

フランキーはたくさんの人を殺したが、その犠牲者の中には「市民」の数はなかった(と思う)。彼は戦いつつも「無差別テロ」はやらなかったのだろう。実際のIRAは無差別テロもやっているんだけどね。