今日は天気も良く、気温もちょうどいい感じだったので、どこかへ出かけようということになった。しかし行き先が決まらない。相方とあーだこーだ言っているうちに、「余部鉄橋を見に行こう」ということになった。
余部鉄橋は、兵庫県の日本海側の真ん中当たり*1、美方郡香美町(旧城崎郡香住町)にある、山陰本線の巨大な鉄橋だ。以前に強風で煽られた列車が落下するという事故があったことでも知られている。
海辺の谷間に突然見える陸橋はかなり見栄えがする。このくらいの高さなら、最近では高速道路などでもよく見かけはするのだが、橋脚がコンクリートではなく、むき出しの鉄骨で組まれているところがいい。新幹線や高速道路のように壁で覆われていないので、鉄橋の下から、鉄橋を走る列車や線路の様子が見える。そのためかどうかわからないが、無機質なのに、なぜか柔らかさを感じる。しかも橋脚の周辺が草むらになっていて、菖蒲だかなんだかよくわからないが黄色い花などが咲いていて非常にのどかで穏やかだ。
しかもこれが明治時代に作られたというのもすごい。
余部鉄橋のすぐ脇に餘部駅がある。そこを目指して行ってみることに。余部の村内へ続く細い道を入っていく。ところどころに餘部駅を示す看板は見えるが、駅舎も駐車場らしき場所も見当たらない。そもそも鉄橋は山の上につうじているのだが、そこに至る道からしてありそうにない。よく見てみると、山の上の方に通じる細い山道があり、そこを人が登っている。
村の中を歩いていたお婆さんに、駅の場所を聞いてみたところ、車では行けない、とのこと。鉄橋の下の駐車場に車を置いて脚で登らなければならないらしい。車を引き返して、徒歩に切り替え。子をおんぶ紐で背負っていざ。歩いている途中で、鉄橋を列車が通った。ちょうど真下辺りから見上げるような感じでその列車が通り過ぎるのを見ていた。
駅へ通じる道は本当に普通に細い山道。自転車でさえ登れないほど細くて急だ。看板がなかったら誰もこれが駅に通じる道だとは考えないだろう(下の写真を参照)。老人や体の不自由な人、そして我々のように体力のない人間には優しくない駅だ。真夏だったり雪が降ったりしたらもっと大変だろう。
汗だくになりながら上までたどり着くと、餘部駅は本当に鉄橋のすぐ脇にあった。普通は鉄橋のすぐ側などは立ち入り禁止などになっていて入れないことが多いが、ここは鉄橋のすぐ側からその上、向こうまでもまっすぐと見通せる。
鉄橋の向こうはすぐにトンネル。向かいには深い青色に染まる日本海。なるほど絶景だ。私たちのようなぶらりと訪れた観光客ぽい人のほかに、カメラを設置して列車が来るのを待っている人も何人かいた。
上で列車が通るところを見たかったのだが、あいにく私たちが到着するまでに列車が2本通過し、時刻表を見たところ次の列車は1時間半くらい後ということだった。ということで、帰路につく。と、下り始めてから5分くらい経ったころに、ガタンゴトンと列車の音が。見ていると特急列車が通過していった。そう、時刻表には停車する列車しか書いてなかったのだ! 考えてみれば、駅には私たちが降り始めた頃にもたくさんのカメラを抱えた人が待機していた。1時間以上も待つなんて、さすがだなぁ、と思っていたが、そうではなく、みんなこの特急列車を待っていたのだ! 上で見たかったなぁ。残念・・・。
そんなわけで、突然思いついていったわりにはかなり面白い場所だった。体力がないながらに頑張って登った甲斐はあった。壮大ながらのどか。そして余所から訪れた人には珍しいものながら、その土地の人には生活に密着しているところ。そんな場所だった。
おまけ。駅にあった看板より。
餘部橋りょう
山陰本線 鎧・餘部間京都起点188K637M97
橋りょう概要 (トレッスル橋りょう)
- 着工:明治42年12月
- 開通:明治45年3月1日
- 緒元:高さ=41M45
正長=310M59
橋台=2基
橋脚=11基
鉄けた=23連
塗装面積=21,382〓- 使用鋼材:橋脚(トレッスル) アメリカンブリッジカンパニーヘンコイド工場製
橋 石川島造船所製 明治44年9月神戸から陸送- 工事費用:331,535円
- エピソード:橋脚の鋼材はアメリカから九州の門司に送られ、3千トンの内地汽船に積み替え、明治43年8月餘部沖でハシケに移して陸揚げされたが、いつも荒れがちな日本海が材料取卸しの間中ナギが続き無事作業完了となった。
地上41メートルの工事だけに、作業員には2万円という巨額な保険がかけられた。
もひとつおまけ。橋の下にあった看板より。
余部鉄橋(あまるべてっきょう)
この鉄橋は、明治四十五年(一九一二年)に二年の歳月と三十三万余円の巨費、延べ二五万人の人夫を投じて完成された。建築様式はトレッスル式鉄橋で当時の鉄道院技師古川晴一氏などにより米人技師の意見を取り入れ設計された。トレッスル(橋脚部分)の資材はアメリカより送られて来て余部沖でハシケに移し陸揚げされた。山陰本線敷設では最大の難工事であり、この鉄道の完成により事実上の山陰本線の開通となった。(明治四五年三月)
高さ四十一メートル、長さ三〇九メートルの規模は当時、東洋一としてデビューしたが現在でもトレッスル式鉄橋では日本一の規模を誇っている。
昭和六十一年十二月の折からの強風による、列車転落事故は全世界の人々を震撼させた。
犠牲者の方のご冥福をお祈りします。
- 追記
「あまるべ」の表記や鉄橋の正式名称についての議論を見つけた*2ので、周辺の看板等に書かれていた表記についてちょこっとまとめてみた。
道路標識等の地名 「余部」(地名としては余部となっているようだ) 村内へ入る道にあった看板 たぶん「余部駅」 鉄橋側面 「余部橋りょう」 駅名 「餘部」 駅の鉄橋紹介の看板 「餘部橋りょう」、駅名としても「餘部」との記述が 駅脇の機械ボックス 「余部風突発ケース」 鉄橋下の鉄橋紹介の看板 「余部鉄橋」「余部駅(時刻表)」 Yahooでの郵便番号住所 「兵庫県美方郡香美町香住区余部」
まあなんだ、余部も餘部も混在してる感じ。JR西日本のホムペでも、駅名は「餘部」が正式名称となっているようだが、鉄橋名に関しては余部鉄橋と餘部鉄橋が混在している。登記上の正式名称はあるんだろうけど、明確な区分とか、どっちが正しいとかないんじゃないかなあ、と。
- 関連サイト
- 余部鉄橋のある風景
- ]iéPj´À@amarube viaduct (余部鉄橋に関する詳細な解説)
- 404 Not Found (地元出身の人が書いた余部の紹介。地元の写真などもあり)
- 余部鉄橋と カフェレスト AMARUBE & 民宿旅館 川戸屋 (鉄橋下にある旅館のホムペ。写真館あり)
- 兵庫県/ご指定のページは見つかりませんでした (「余部鉄橋の定時制確保対策」など)
- 余部鉄橋を渡るキハ58系 - TZN’EX★Blog - 乗り物系個人サークル「新新快速」の本拠地 (はてなダイアリー)
- 余部橋梁 - Wikipedia