コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

集団の脆弱性

えーと、だらだらと思索です。机上の理想論でまともな結論には至ってないですが。

                                                                                                                                • -


私は集団というものが嫌いだった。人間が社会的な動物であり、個では生きられないがゆえに集団を形成するというのはわかる。また集団になることで効率的に物事を行なえるようになり、また自分たちを内外からの脅威から守る力にもなるということも理解している。

しかし集団は力を持つが故に、簡単に暴走する。己を守ろうとする余り、他の集団に対して攻撃的になり、また己を保持しようとするあまり、内部に対して恭順を強制する。本来個々のために存在するはずの集団が、その本文を逆転し、集団の存続のために個に犠牲を強いるようになる。


どんなに崇高で理想主義的な集団でも、この退廃は免れない。善と平等を理想に掲げた宗教という集団でさえ、長い歴史の中で階級を作り、理不尽なルールを作り、民衆を虐げ、相反する思想を弾圧し、他宗教と戦争を繰り返してきた。

むしろ宗教というのは、それが「信仰」という曖昧なものによってのみ意味付けられる故に、他の集団よりもさらに瓦解しやすい。信仰という個々が持つものを統一しようとするがゆえに束縛が厳しくなる。信仰という個人の体験でしかないものを他者に共有させようとするから齟齬が生じる。その概念を固定化し、集団を維持させようとするがゆえに、宗教という集団は「集団を疑うこと」を排除する。疑問を罪とすることによって思考停止を強要し、信じねば罰が下るという恐怖によって従順を強制する。宗教はそうやって本分を失い、「集団を維持すための信仰」をお題目に掲げることになる。

宗教そのものが悪なのではない。それを「人間が行なう」から腐敗する。それが人間の所業である限り、「理想的な集団」を成就することなどできない。たとえ神を感得することからはじまったとしても、それは個人的体験でしかないし、その真偽を人が判断することは不可能だ。その曖昧なものによって成り立つものが確固たる存在たりえるはずがない。宗教が簡単に迷走するということは過去と現実を見れば明らかだ。宗教者の中に人徳者がいたとしても、それは「個人の資質」でしかなく、宗教団体そのものの姿勢とは言えない。宗教がきっかけで善行を行っていたとしても、その同じ宗教が犯してきた罪は否定できない。それが「人が作る集団」である限り、「善なる宗教」などありえない。


また、理想的な集団という話であれば、最も平等を謳う共産主義という思想を選んだ国が、最も民を虐げる国家となっているということも皮肉な話である。平等とは彼らにとって「個性の略奪」でしかないのか。同じ顔をして笑うことが平和と平等であるのなら、人は脳など捨ててしまえばいい。それは「個のための集団」ではなく、「集団という個」を形作ったに過ぎない。その中に個はない。これは集団が個の形を決めてしまうという最も愚かな例のひとつだろう。

理想を持つのは良い。共産主義的な考え方を集団に導入するのも良かろう。しかし理想のために個を蹂躙していていは本末転倒の極みだ。


集団はそれ自体不安定なものであるが、権力をもった個人に利用されることによって、これまた簡単に迷走する。これに耐えられるだけの集団というものは恐らく存在しない。特に理想や正義を唱える集団はこれに弱い。先にも述べたように、そういう集団は「自己批判」を否定する。理想を中心に据えているがゆえに、それを否定してしまうと集団の存在自体の否定になってしまうからだ。集団は集団を守るために構成員に「無能」を要求し、悪人がそれを利用する。

半島北部の国や、地下鉄テロを起こした宗教団体はその典型だ。それらは理想からはじまり、信者を増やし、そして狂っていった。集団そのものが悪意によって生まれたのか、それとも悪人によって狂った道へと誘導されたのかは微妙なところだが、それが理想主義的であるがゆえに狂ったということは確かだ。全ての理想主義の集団はこうやって悪人に簡単に利用される危険性を孕んでいる。

だいたい、共産主義を唱えているくせに世襲制などありえない。バカバカしくて笑う気にもならない。彼らはそういうことさえも疑問に思わぬほど思考停止してしまっているのだろうか。


国家間の紛争というのも、集団の愚昧さの典型である。国家というのは人間のエゴの巨大化した姿だ。道理も冷静な会話も通用しない。わがままな子どもが銃を手にしてにらみ合っているのと同じだ。子どもの喧嘩なら制することも可能だが、国となると単位が巨大になり過ぎて、第三者の手によって制止することもままならない。結果として、本来守るべき集団の構成員に犠牲を強いる。戦争という愚かな行為によって、集団の構成員を殺していく。子どもたちを残酷な方法で殺す。人は集団によって社会性を得る一方で、集団によって欲望を剥き出し、野生を表出させる。


そうは言っても集団が存在しなければ人は生きていけない。もはや集団がなければ、食事のひとつにもありつけない。また人は精神的にも他者を欲し、集団はそれを保証する。人が社会的な動物であることは今までもこれからも変わらない。ゆえに集団が「必要なもの」であることは否定しない。

私自身、集団を必要としているし、実際にさまざまな段階の集団に属している。それどころか、年をとるにつれてそれまで忌み嫌っていた集団への帰属意識というのも強まっているように思う。自分たちを守るため、という理由もある。他の集団の善意を信じているだけでは簡単に潰されてしまうというのも事実だが、しかしそれだけではなく、盲目的な集団への恭順が生まれてきているようにも思う。

気付くと驚くほどに集団に固執している自分がいる。私の脳みそもかなり堅くなってきたということだろうか。集団に帰属しているというのは酷く楽だし、集団はそれを欲しているがゆえに「自由意志」を持つ者を排除しようとさえする。昔はそういう集団の身勝手さが大嫌いだったのに。

腐敗しない集団など存在しない。しかし集団に属さなければ生きていけない。集団は個のためにあるとはいえ、個のためばかりを考えていて集団そのものが潰れてしまっては、これまた本末転倒である。このジレンマの中で人は生きていくしかない。

私に集団を変革させるだけの力などないが、せめて自分の頭の中だけでも、もう少し柔軟でいたいと望む。


悟りというものは、「昨日悟ったことを否定」することでさらなる悟りを得ていくものだという。得たと思った「真理」は常に変革する。集団にとって最も脅威となるのは、外敵でも内部の反乱でもなく、やはり「思考停止」なのだと思う。