コトバノウタカタ

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無知なる善意

id:sledoni氏の話(id:sledoni:20050223:p2)から。


   イラク人質問題 雑感: おいらブログ


いまさらイラクの拉致事件問題に関してコメントするのもなんだけど、善意による行動一般について、ってことで読んでやってください。

無知なる善意は確かに怖い。いわゆる本来の意味での「確信犯」になることもある。どんなに善意があっても、知識と正しい方法がなければ正しい結果は得られないし、正しい結果が得られなければそれは正しい行動とは言えなくなる。

上記の記事へのコメントを見てもわかるが、こういう話が怖いのは「善意で行動しているのだから悪い結果になったとしてもいちがいに批判すべきではない」という意見が出てくるところ。しかし善意だからということで全て許されてもいいのだろうか。

例えば「国境なき医師団」のメンバーが、同じようにテロリストに拉致されたとしよう。その場合このような批判が起きるだろうか。おそらく否だろう。なぜなら、彼らはきちんとルールを作り、方策を練って、万全を期して事に挑んでいる。もちろんそれは100%完全ではないが、しかし単なる勢いだけではなく、善意を形とし、結果を出し、かつ他の人に迷惑にならないように考えて行動しているのだ。

イラクで拉致された人たちは果たしてそのような方策をどのくらい練っていたのだろうか。60%? 30%? 実際にはもっと低いだろう。彼らは「善意」があれば全て許されると信じ、行動し、そして拉致された。そのために多くの人間に多大なる迷惑をかけ、多くの税金が無駄に浪費された。「それでも善意からの行動だから」で許してしまっていいものだろうか。彼らは善意を行動に移すためにやるべきことをきちんとやったのだろうか。善意からと自称する愚かな行動は、何もしないことよりも良いことと言えるのだろうか。私は必ずしもそうだとは思わない。

善意を愚行の免罪符にするべきではない。


ボランティアの話については、いくつかの事例を耳にしたことはあるが、実際にボランティアに行った人の話を読むのははじめてかも。ボランティアにもルールややり方があって、それが無秩序になると混乱を招いたり、迷惑になるという話はよく聞く。

例えば衣服や毛布の無償提供といって、いらなくなった服や毛布をたくさん送るボランティアがいたらしい。中にはぼろぼろの雑巾のような衣服も。被災者が衣食住に困っているといっても、人の使い古しばかり貰っても困るという話。

物資を送るにしても、大量に無秩序に送りつけられた物の管理ができず、保存のきかない食料などはそのまま腐って大量のゴミになってしまった、などというケースもあるようだ。

善意にしても「考えること」はやはり必要だろう。善意だから自分は正しい、ではなく、まず善意とは何か、誰のためのものか、どうすればいいのか、それがどういう結果を招くのか、そういうことを考えておかないと、それこそ偽善、自己満足になってしまうのではなかろうか。

などとボランティアなどやったことのない私が吠えてもまったく説得力がないわけだが。しかし、善意とは「ただあればよいもの」ではないということだけは確かだろう。