コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

小説の書き方

id:iduru氏の「小説を書くこと」を読んで。

昔は遊びでぼちぼち小説を書いたりもしていたので、この小説の書き方に関する話は興味深かった。自分はどうだっただろうか、と考えてみる。あまり緻密な設定などはしていなかったし、かといってパズルを組み合わせるような器用なこともできなかった。雰囲気と勢いで書き始め、雰囲気と勢いで書き終えていたように思う。

もう少し具体的に思い出してみようか。


書き方にも何パターンかあったように思う。ひとつは「ある場面」を描きたいという場合。それは導入であったり、中盤であったり、あるいは最後であったり。ともかくあるシーンを描きたいがために小説という形をもって書きはじめる。

導入を描きたいと思った場合、たいていラストはあまりしっかりと考えていない。書き始めに任せ、書きながらラストを考えていく。そしてたどりつく先はたいていまとまりのないうやむやなエンディングだった。

逆に中盤やラストを描きたい場合、今度は導入が弱くなる。書き始めが弱いと、勢いで書くということができなくなる。そうなると描きたい場面にたどり着くまでに失速し、けっきょく書き上げることができずに終わってしまう。

どちらにしても、シーンだけ頭に浮かべて書き始める場合には話の骨子がない。骨子がないだけに広がりもまとまりもなくなる。ダメ小説の出来上がりである。


別の書き方もあった。ストーリーの大筋を考え、それを肉付けしていくといういわゆる「王道」的な書き方だ。しかしその場合、今度は話がどんどん大きくなる。また書き進んでいくうちに、大筋に矛盾を見つけてしまったり、違和感を覚えたりして書きにくくなる。そうではない場合でも、ストーリーありきなので説明的な文章ばかりになってしまいつまらなくなる。当然勢いもなくなる。けっきょく書き上げるところまで行き着かない。大風呂敷はだらしなく広げられたまま放置されてしまう。ダメ小説の出来上がりである。


もうひとつの書き方。キャラありき。これは漫画などでよく使われる手法だ。個性的なキャラをいくつか用意し、そこにイベントをぶち込んでやると勝手に物語が生まれる。これは軌道に乗ればうまくいくが、これまた骨子がないので、たいていは「漫画的なもの」で終わってしまう。主張も余韻もないエンターテインメントにとどまってしまうのだ。それでも完成度の高いエンターテインメントなら良いのだが、そこまでの才能もないし、けっきょくダメ小説の出来上がりである。

どうにもなりません。


パーツを組み合わせて、という書き方はあこがれたりもしたが、私にはできなかった。そもそもパーツ集めがうまくいかない。そして集めても組み合わせができない。私には文章に関してのコラージュやテクノ的なセンスはないようだ。


私のことはともかく、こういう「いろいろな描き方」を実際にやっている小説家がいる。それは栗本薫だ。

「シーンありき」と「キャラありき」を合わせた、勢いと雰囲気とシーンだけを描いていって流れにまかせて話を作っていくタイプの長編小説として「魔界水滸伝」があげられる。これは本当に漫画的な小説で、当初の設定とそれ以降の設定がまったく違ってきている。出来事に関しても行き当たりばったりな感じが強く、本当に流れで書いているという感じ。作者自身が「漫画の『デビルマン』の最後の方の、悪魔が空を埋め尽くすシーンを書きたかった」と言っているくらいだから漫画的であるのも当然と言えば当然だろう。

その対極にある長編小説が「グインサーガ」。こちらは「物語ありき」ということで、あらかじめ完璧な歴史年表が作り上げられ、それに従って話が進んでいく。大きな出来事やラスト、世界観、キャラなどはあらかじめ決められている。もちろん書き進んでいくうちに多少の変化はあるようだが、それでも根本は変わらない。こちらはいわば「映画的」あるいは「大河ドラマ的」な作品で、とにかく史実に忠実に、あるいはそれに肉付けをされて物語が進んでいく。

といっても、どっちも途中までしか読んでないんだけどね。

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