コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

いのちの違和感


「いのちの はてなダイアリー*1」というはてなダイアリークラブがある。これは、落ち込んだり、精神的に疲れている人などに暖かい言葉をかけて励ましてあげよう、という趣旨のクラブだ。その趣旨についてはそんなに悪くないと思う。不特定多数の人間に励まされるというのがどういう励ましを与えられるのか私にはわからないが、人によっては効果的に励ましを得られることもあろう。はてなのネットコミュニケーションを上手く利用したシステムだと思う。

しかし私はこのキーワードにある種の違和感を感じている。その理由について自分なりに少し考えてみた。


まず気になっているのはこのキーワードが出来た経緯だ。いまでこそ励まして欲しい人が日記中に「いのちの はてなダイアリー」と書き込み、それに対してボランティアが励ましの言葉を書き込みに行く、という形式になっている。しかしこのキーワードが出来た当初は「死にたい」とか「つらい」などの言葉をキーワードにして引っ掛けて、それを書いた人の日記へ押しかけて励まそう、という趣旨のものだったのだ。まず「死にたい」やら「つらい」やらをキーワードで引っ掛けるということ自体かなり悪趣味だし、そこへ勝手に押しかけ励ましをするというのは問題外だ。実際に論争が起き、二転三転して現在のような「助けを求めた人の元へ励ましに行く」というスタイルになった。

趣旨が更新されたモノに対して、以前の趣旨を理由に文句を付けるのもどうかと思うが、しかし趣旨が変わったといっても以前の趣旨に対する印象が払拭されるわけでもない。私の中ではまだ以前の趣旨の悪印象が尾を引いている。


二つ目。たぶんこれが大きな理由なのだが、「いのちの」という肩書きが大仰過ぎるのだ。実際に「いのち」に関わるほど悩んでいる人がこのような形式の助けでなんとかなるとは思えないし、逆に「いのち」に関わるほどではなく、ちょっと励まして欲しい人にとっては重過ぎるタイトルだ。また命に関わるほどの問題を扱うにしてはこの形式は簡単で安易過ぎる。励ます側が下手な励ましをして事態を悪化させる可能性だってある。鬱状態の人に「頑張れ」なんて言ってしまう人なんかもいそうだし、逆に「死にたい」と言ってる人に「そう思うこともあるよね」などと言って安心感を与えてしまう人だっているかもしれない。専門的な知識のない人間が本当に追い詰められた人間に相対するのは危険なのではないだろうか。

「いのちの はてなダイアリー」のキーワード内には「自己責任で」との記述がある。しかし実際には誰がどうやって責任を取れるというのだろうか。この一句は、言い訳のために添えられた現実性のないもののように感じるのは私だけだろうか。


せめて、もっと適当なキーワード名であれば気にもならなかったかもしれない。「助けてはてなダイアリー」とか「はてなダイアリー相談所」くらいの名前にはできなかったのだろうか。そうすれば当初の悪印象も払拭でき、より趣旨に即した名前になったと思うのだが。

*1:リンク避けのためにスペースを入れている。