コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

錆びた鈍いナイフ

書きたいことを書こうと思い、このブログを書き始めた。日々思うこと、何かに対して感じたこと、憤りや理不尽な思いや愚痴、時に少し格好つけた理想論や辛口の批判。そんなものを勝手気ままに書いていこうと思っていた。

ブログなどしょせん独りよがりの自己満足だと思っていた。実際にその通りだ。しかし一方で、はてなというシステムは人との関わりの手段も提供してくれている。コメントやトラックバックで人とつながり、個人的な独白であったブログはいつのまにか他の人のブログに繋がっていく。またそのシステムを知るがゆえに、人と繋がりたくなり、己の方からコメントやトラックバックを送ることもある。

そうすることで、しがらみが生じる。人との関係を壊したくないという欲が生まれ、それがやがて枷となる。結果、書きたいことをが書けなくなっていく。書きたいことを手加減して書き始める。書くべきことを省略する。核心が朧になり、論旨が空ろになる、ときに書き込んだものを丸々消去する。そうして波風を立てないようにする。体面を保とうとする。八方美人の本領が発揮される。

嘘を書くわけではない。しかし語るべき己の言葉を偽っていることには変わりはない。欠落した言葉は真実に到達することはない。たとえそれが私個人の独りよがりの真実出合ったとしても、それを恣意的に改変するのであればそれはやはり嘘である。私は本質を失い始めているのではないか。己に対し、そんな疑念が生じてくる。

これが気心の知れた関係ならもっと踏み込める。相手と対峙する意見を持ったとしても、相手を傷つけずに語る言葉を選ぶ方法を知っている。しかし中途半端に知っている相手にはそうはいかない。思いも寄らぬ言葉で不快にさせることもある。そのようなことに対し、私は酷く臆病だ。そうでなくても人を傷つけ、不快にする言葉を我知らぬうちに発してしまうことが多い。その上、わずかに残った配慮まで失ってしまったら、私はおそらく錆びた鈍いナイフになってしまうだろう。鋭くえぐることもできず、核心へたどりつくことは決してない。にもかかわらず人に不快な苦痛を与える錆びた鈍いナイフ。

だからといって自らを偽ることもまた相手に対して失礼なことではあるまいか。体裁のいい言葉で相手を騙しているに他ならない。それが大人の態度? それが世渡り? そうなのだろうか。それはそうなりたくはないと子供の頃から念じていた醜い大人そのものではあるまいか。枷をはめられ、作り笑顔で嘘をばらまく醜い大人。引きつった笑顔の仮面はいつか素顔と同化し己の内面までをも蝕むのではあるまいか。

すべてを清算したいというわけではない。ただ忌憚なき言葉を誤魔化したくはないという気持ちが燻る。錆びた鈍いナイフと作り笑顔の仮面をかぶった大人。私はどちらを選べばよいのだろうか。