コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

心理学やら宗教学やら

昨日、HDDレコーダについての記事を書いているときに、心理学用語の「合理化」という言葉を思い出せなくて困った。ネットを調べまくってどうにか見つけ出したわけだが、答えがわかると「なーんだ」というような簡単なものだった。

私は大学の教養課程で心理学をほんの1年間だけかじった。1年ではとても専門的なことまでは学べないので、心理学のほんの表層、歴史や心理学の体系、そして実際に行われた実験などについて簡単に学んでいった。しかし表層だからこそ面白いというところもある。深く突っ込んだら難解な事柄も、表層であればその美味しいエッセンスだけを抽出して味わうことができるのだ。

その心理学の講義の中で、上記の合理化などの話が出て来た。他にも、投射や吊橋効果、社会的手抜きなど、実例などを交えた授業を聞いた記憶がある。有名なヒトラーの実験室の話や、てんかんの発作を抑えるために脳梁を切り、右脳と左脳が別々に働くようになった人の話などもその授業で初めて聞いた。

その程度の話であれば、心理学関係のムック本を読めば書いてある、と言われてしまえばそこまでである。それはそうなのだが、しかし少なくとも私にとってその心理学の授業は十分楽しいものだったし、いまだにこの血肉の中を知識として巡っているほどのインパクトがあった。


もうひとつ、強く印象に残っている教養課程の授業があった。それは宗教学だ。宗教学というのは、宗教というものを人間の社会的な活動のひとつとして、分析したり、分類したり、体系づけたり、定義したりする学問ということだった。宗教を内側からではなく、外側から見る。特定の宗教を見るのではなく、宗教活動という人間の営みの観点から、すべての宗教をまとめて観察し、その中の共通点と相違点を見出していく。その授業の中で、宗教の定義や宗教の3つの段階などを学んだ。


どちらについても、手元に資料がないので今は詳細は書かないことにするが、そのうち実家から大学時代のノートを引っ張り出してきて、書いてみようかな、などと考えている。実際にそれらを専門として学んだ人にとっては稚拙で低レベルな話になってしまうだろうが、雑学として面白く、そして「人間」というものを考える際にすごく役に立つ2つの学問だと思う。


しかし、高校、大学とバリバリの理系であったのに、記憶に残っているのはこういう文系の授業ばかりだ。理系の授業は仕事などの役に立っているといえば立ってはいるのだが、面白かったと言えるのはやはり文系の授業だ。理系に進んだことを後悔したことも一度や二度ではない。どこかで少し何かのきっかけがあれば文系に転向していたかもしれない。しかし文系に進むには重大な問題があった。現代国語の試験はコンスタントにそれなりの点が取れていたのだが、古文と社会がテンデ駄目だったのだ。英語もあまり得意ではなかった。けっきょく受験というふるい分けは、私に理系に進む選択肢しか与えてくれなかった。

また話が発散してしまった。この話はこのへんで。

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