コトバノウタカタ

よしなしごとをつらつらとつづるばしょ。

妄想(もうそう*)


「妄想」といえば、「ありえないことを想像すること」というような意味合いで使われることが多いと思う。しかし実際の意味はこうだ。

根拠のない誤った判断に基づいて作られた主観的な信念。分裂病・進行麻痺などで特徴的に見られ、その内容があり得ないものであっても経験や他人の説得によっては容易に訂正されない。

つまり、「ありえないことを病的に本当だと思い込むこと」が妄想である。「ありえない」と知りながら想像していることは本来「妄想」ではない。それは「空想(くうそう)*」と呼ぶべきものであろう。では「ありえないことをありえないと知りながら想像すること」を妄想と呼ぶのは間違っているのだろうか。

言葉上の定義のみを論じているのであれば是、しかし現実的な視点に立てば否、だろう。辞書に載っていない意味でも、その概念が一般的に通じるのであれば、それはもう立派な「新しく追加された意味」と言えるのではないだろうか。実際、「思い人との未来を妄想する」などと言った場合、病的な思い込みを想起する者はそう多くはあるまい。この場合の妄想はいわゆる「空想」と同様で、「あるかどうかわからないけどあったらいいな、程度のことを頭の中で思い描く」という意味に受け止められるだろう。

言葉は生き物、とはよく言われるが、実際に言葉の意味やニュアンスなどコロコロ変わっていくものだ。造語、新語は当然として、いままであった言葉でも新たな概念の導入や価値観の変異、変わった使われ方の一般化などでどんどん変化していく。「君子豹変す」や「五月晴れ」などは言葉の意味が逆転した典型だろう。

言葉の極化、まで話を広げると収集がつかなくなりそうなので今回は割愛するが、生まれては消え、消えては生まれる言葉たちは、それはそれであるシチュエーションにおいては「正しい言葉」なのだと思う。ギャル語だって2ch語だって、ある集団ではそれなりの価値のある言葉であることは確かだ。「好きくない」だって「食べれる」だって「全然おっけー」だって、意味が通じるならそれはそれで言葉として成り立っている。

しかし、どういう言葉を使うにせよ、「本来の意味」は知っておくべきだと思う。さもなければ、絵画の基本も知らず、具象画も描けないのに抽象画ばかりを描いているようなおかしなことになってしまいかねない。私とてそうそう知識があるわけではないが、「新しい言葉の価値」を認めるとともに、「古い言葉の価値」も重要だと考える。また場面や状況に応じてそれらの言葉のカテゴリを切り替えるのは重要なことだ。場をわきまえない言葉は相手に不快感を与える。そうなると、本来の言葉の意図以外の負の印象を相手に与えてしまうことになる。つまり場の秩序を間違えば、その言葉はやはり「正しくない言葉」になってしまうだろう。

まあ、私も人にとやかく言えるほどきちんとした言葉遣いはできていないのだが。*1

*1:余談だが、「妄想」で画像検索するとエロいの出すぎ・・・。